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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (6) 黒田小学校

小日向水道町に移ってから年が明けてまもないころ、明治24年1月11日の夜、祖母のみきが亡くなりましたた。満79歳です。次にひくのは「銀の匙」に描かれた祖母の思い出です。

《私は朝々早く起きて草茫々とした明地を跣で歩かせられる。ぺんぺん草や蚊屋つり草や其處にはえてる草の名をおぼえるだけでも大變な仕事であつた。その頃八十近くであつた祖母も坊主頭に毛繻子(けじゅす)の頭巾を被つて杖をつきつきいつしよに露をふんで歩く。祖母は性のいい三つ栗を裏の垣根のくろへ一粒づつ三ところに埋(うづ)めこれは自分の死んだ後孫達が大きくなる頃には採つて食べられるやうになるといつてゐた。祖母がなくなつてから私共はそれをお祖母樣(ばあさま)の栗と名づけて大切にしてゐたが此頃は三本ながら立派な栗の木になり秋になれば其時の孫達が笊(ざる)に幾杯かの栗を落して己が子供にむいてやるやうにさへなつた。》(「銀の匙」、第十回)

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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