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ALS筋萎縮性側索硬化症が家にいる

耳鼻科医ですが、在宅療養を続けるALS筋萎縮性側索硬化症の患者さんに、長く関わりました。その経緯、在宅での生活を記録します。

下咽頭癌だと思ったらALSだった

10年も前で、主治医と指導医は大学病院を辞めているので、もう時効です。飲み込みが悪い、誤嚥する症状で受診、下咽頭の生検で癌がでました。進行している予想で、手術することになり、喉頭も取りました。取ってみたら「早期癌」でした。放射線治療でも良かったかねと、術後カンファレンス。しかし、癌が治っても飲み込めません。さらに、手足に力が入らず歩けなくなりました。神経内科の診断はALS。ALSにたまたま早期癌が合併、早期癌患者がたまたまALSを発症した、鶏が先か、卵が先かの話になりました。主治医は産休入り、指導医は転勤になり、病棟医長の自分にお鉢が回ってきました。

神経内科は断る

癌は完治、ALSについて神経内科に転科をお願いしましたが、断られました。耳鼻科の教授から、神経内科の教授にお願いしました。神経内科のO教授は、ALSが専門ですから。しかし、驚きの返答が。

神経内科は、診断するまでが仕事。治療法がないので、神経内科ではなく、見つけた元の先生にお返し、面倒見てもらうことになっています。ALSを神経内科が全部みていたら、入院患者が全部ALSになっちゃう。そもそも、なんで気管切開を先にしているんだ(心の中で:喉頭摘出です)。気道確保するかしないかは、患者に考えてもらうんだ。先にしちゃダメだろ。手を出した先生が、最後まで面倒みろ(私でないですが、主治医はあなたの義理の娘です)。

在宅医療が始まりました

介護保険、神経難病ネットワーク、訪問看護師、多くの人の手を借りました。医者はあまりすることがありません。対処療法の薬を出して、気管孔を見て、雑談するだけです。荷台にお風呂のついた車が庭先まで入ってきます。理学療法士さんがボランティアで、体をほぐしにきます。趣味サークルの仲間が、筆談相手にやってきます。医者ができることを、考えていました。

数ヶ月後、いよいよ流動食も口から入らなくなり、胃瘻を開けました。手が震えて、筆圧が弱いので、書字できなくなりました。筆談できなくなると、50音表を指で指して会話します。家で1番過ごしやすい、庭の見える部屋にベッドが入りました。テレビを見て、訪れる人の話を聞いて、ニコニコ笑顔です。でも1日中、家にこもっています。痰の吸引が必要なので、家族も怖くて外出させません。

半年後「車椅子に乗せれば、どこへも行ける」と証明するため、お盆の花火大会の日、大学病院に呼びました。南6階病棟の窓からは、花火が綺麗に見えます。病院ですから、痰はいつでも吸引できました。何事もなく、初めての外出は大成功でした。

秋になりました。イベントがないと外出しないので、その後も家に閉じこもっています。「ばら園まつりに行こう、先生もついてゆくから安心だよ。」と説得して、車椅子お散歩に行きました。吹き荒ぶ赤城おろしが冷たくて、すぐ帰りましたが、数ヶ月ぶりの外出です。

いざ、在宅を始めてみて感じたのは、患者と家族は、一歩を踏み出すのに、とても勇気がいることです。支援者が、イベントを作って無理にでも連れ出さないと、安全安心の家に引きこもってしまいます。2回、イベントを企画して、家族の練習にもなり、それからは、ご夫婦で車椅子移動ができるようになりました。

「ALS患者が家にいる。それだけで怖かった。」ご家族は言っていました。「病気で寝ている家族が家にいる。たまたま病名が有名なALSというだけ。怖くない。」そう言ってあげました。

計画停電で命の危機

数ヶ月後、自発呼吸が難しくなり、在宅で人工呼吸器をつけました。そんなある日、東日本大震災が発生。地震の被害はありませんでしたが、前橋も計画停電になりました。さあ大変、電気がないと呼吸が止まってしまいます。大学病院は受け入れてくれず、神経内科に力を入れている隣市の個人病院に入院して、電源を確保しました。訪問看護師さんが、テキパキと手配して、私は後から経緯を聞いただけでしたが。

自然災害で電気が止まってしまったら、ALSの命は危険にさらされます。地震、台風、洪水、雷、なんでも電気は止まります。病院は非常用電源がありますが、家ではどうすれば良いのでしょう。災害用大容量バッテリーも売ってますが、医療機器はアンペア食うので、動くのかなあ。

その後、足が遠のきました

そんな感じで3年くらい、家で過ごしていました。だんだん、(こちらとしては)することがなくなり、マンネリ化しました。患者も手が上がらず、50音表も使えません。いよいよコミュニケーションが取れなくなりました。瞬きでひらがなを入力する「電右衛門」も試しましたが、うまく会話できません。「ハイ」は瞬き1回、「いいえ」は2回の合図だけになりました。話が続きません。顔の筋肉も動かなくなって、笑わなくなりました。訪れる間隔が延びます。自分が転勤したら、行かなくなりました。ある時、風の便りにお亡くなりになったと聞きました。

はじめのうち、多くの医療者がサポートに入りました。ボランティアで世話する人も多くいました。しかし、軌道に乗ると、次の患者も出てきますから、注意は新しい患者に注がれ、マンネリ化すると関心が薄れてきます。災害支援のボランティアと同じでしょうか。発生直後は、大挙して押し寄せます。人が行かなくなっても、現場の問題は生きている限り続いています。家族は寂しい思いをしたのかなと、後悔もしています。関心を持ち続けること、忘れないことが大切だと、今では考え直しました。


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