男岩鬼になりたくて

 ブッ壊れねえかな〜。
 こんなくだらねえ世の中なんてよぉ。
 クシャクシャに丸めてポイできたら、さぞ気持ちいいだろうなぁ〜。
 んなことをボーッとしながら考える。
 あれ? 
 なんだ、こいつ? 
 何でズラのタコがいるんだ!?
 ズラタコ? タコズラ?
 頭がイカれたのか。いやきっと目がおかしくなったんだな。
 茹であがったばかりの真っ赤なタコが口をとんがらかして怒っている。どうやら俺が怒られているみてえだ。タコのあまりの激昂ぶりに俺の顔に墨を吐くんじゃねえかとそれだけが心配だ。
「何をやってんですか! こんなことも気付かなかったぁ? ったく……」
 おい! なに高圧的な態度で言ってるんだよ。それに最後、“ま”の字も言わずの巻き舌かぁ、調子乗ってんじゃねえぞ、このタコ助!
 心の声に比例して眉間に皺が寄っていることに気づかない俺は、タコと対峙する。
 頭が薄くなっておでこが妙に広い赤ら顔した年下の上司が、機械音のような声でピーピーとフロア中に響くように言いやがる。フロアっていってもたったの20畳ほどの広さ。コピー機と机を5つほど置けばパンパンになってしまう広さだ。
 ドラマとかでよく見かけるパワハラ光景かもしれないが、実際当事者になると相当きつい。みんなの前で怒られている姿なんか、絶対に家族に見せられない。大人になると、妙なプライドが邪魔をする。
 ブチッ!
 頭の中で何かが弾けた音か、スイッチが入った音だ。
「うるせえな、このハゲ! てめえに言われなくてもわかってるよ。先に入社してるからって偉そうにしてんじゃねーぞ!」
 即座に襟首をつかみ、右拳を顔面にクリーンヒット。
 奴は何が起こったのか分からず、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。学歴、出自がどうのとか関係ねえ。偏差値が高ければ殴りかかってきた相手を打ちのめせるのか? 良家の出だからって突き刺してくるナイフに勝てるのか? 結局、最後は腕力がものをいうんだよ。生まれてきたことを後悔させるくらい殴りつけると目から涙を流し、口から血を流し、顔がいろいろな色の液体でグチャグチャになった。
 懇願しようにも恐怖で口がきけないらしい。ガタガタ震えている。
 そんな情けない顔を見ていると余計に腹が立ってきて、怒りで固められた拳を上から垂直に振り下ろした。とりあえずみんなの前で赤っ恥をかかせてやったことに喜びを感じた。
「てめえ、死なすぞ!」
 沖縄の方言で言いながら、殺さずにクシャクシャにして投げ捨ててやった。
 でも、人を殺すってどんな感じなんだろうと思ったことが一度だけある。もちろん、人を殺そうとしたわけではない。ただ、動物を殺めたときにそう感じたのだ。
 沖縄ではお祝い事があると、ヒージャーを喰う習慣がある。ヒージャーとは、めぇーめぇー叫ぶ山羊のことだ。結婚や新築祝いとかに大鍋で長時間煮込んだ山羊汁を大勢にふるまう慣習があって、中学生の頃、何度かヒージャーを締めたことがある。締めるとは“殺める”だ。
 まず、血抜きをするためにヒージャーを太い木の枝に手足を縛って逆さに吊るす。30分ほどたつと、血が頭のほうに溜まり、首のあたりにある頸動脈を柳包丁でブスッと刺す。ドスッと刃が肉にめり込む感触が手に伝わる。生き物を殺すために刺した罪悪感からなのか、柳包丁を持った手の先からドス黒いものが身体全体に染み込んでいくようだった。
 ポタリポタリと血がしたたり落ちていく。それを半日ほど吊るしておくと、桶いっぱいに血が溜まる。桶いっぱいに溜まった濁ったドス黒い血を初めて見たときは、ゴキブリやバッタを殺すのとわけが違って自分が抹殺したという罪の意識がじわじわと足許から覆い被さり、思わず胃袋の中のものすべてを吐き出してしまった。
 そして血抜きをすべて出し終わるころになると、じっとしていたヒージャーが急にピクピクッと動き出し、最後の力を振り絞ってもがき始める。生への執着というか、足掻く姿がより恐怖を募らせる。
 やがて血抜きも終わり、完全に息絶えたと思って縄をほどくと、極たまにヒージャーが息を吹き返し逃げ出す。ヒージャーは必死で逃げようとするが足許はおぼつかない。だからといって大人2人がかりで押さえつけようともしても凄い力で抵抗し、暴れまくる。普段、草しか食べてない草食動物のくせにもの凄い力を見せつける。猛々しいほどの暴れ具合に生命の強さを感じ、初めて生命が潰える瞬間を目の当たりにしたときは背中に言い知れぬ戦慄が走り「もう後には引けない」なぜかそう思った。
 いくら食べるためとはいえヒージャーを自らの手で殺すのは、自分の手を汚してしまうのと一緒だ。こんなことに慣れてはいけないと思った。何度もやっていたら頭がおかしくなるのが目に見えて分かる。だから、俺はおかしくなったんだろうのか……。

「ねえ、大江さん、大江さん! 聞いているんですか?」
 急に大きな声が頭の中を駆け巡った。
「あ、はい」
「これまでずっと好成績だったのに、最近変ですよ。次回から気をつけてもらわないと困りますからね」
 苛立ちを隠せない様子に対し、言い返せない自分がいる。最近ヘマをして怒られると、すぐ妄想してしまう。妄想の中のそいつは勇猛果敢であり、自分の心の思うままに従って生きている。
 妄想癖というか、キャンキャンと小言を言われるのをまともに聞かないように勝手に現実逃避しているだけだ。いつの間にか上手く逃げるのが得意になった。
 ちょっと時間に遅れれば「沖縄タイムですか。ゆっくりはいいですね」と嫌味を言われ、商談で上手く話せないと「沖縄の男性ってシャイかもしれないけど、ここでは関係ないですから」とパワハラまがいなことをこれみよがしに言う。“沖縄”出身ということを餌にしていたぶられ、それに対して何も言い返せない。俺のアイデンティはどこにいったのか。
 頭を垂れながらもずっと自己嫌悪に陥り、自分ひとりだけ別次元にいるようだ。耳の奥もぼーっとして音を遮断している。
「せっかくの元プロ野球選手なんだから、その知名度を生かして頑張ってくださいよ」
 何回も言われたお決まりのセリフで、ようやく小言が締めくくられた。
 シーンとした不穏な空気が鎖のように巻きついて俺の身体をがんじがらめにするため、一刻もこの場を立ち去りたく“外回り”と扮して会社を出た。
 空を見ると、入道雲はめっきり見なくなった代わりに点々と繋がっているウロコ雲が涼しげに浮かんでいるけど、まだまだ夏色模様。でもなんかもの足りない。気温が30度を超える真夏日であろうと、沖縄の空の色とは違う。東京の夏はもの凄く暑いけど、周りの景色が妙に薄い感じがする。たくさんの色合いで彩られているのに、なんか無機質。
 とりあえず地下鉄に入った。人間バツが悪くなると、地下へ地下へと潜る習性があるのだろうか、急いでもないのに駆け足で降りて行った。
 来た電車に乗り込み、ふと真っ暗な窓ガラスを見ると、大柄な男がうつろな姿で立っているのが映っている。
「俺、こんなんだったっけ!?」
 久しぶりに自分の姿を見た気がする。妄想するときに出てくる自分は勇ましくキラキラ光っているのに、今はなんでこんな生気がないんだ? 真っ暗な窓ガラスに写っているのを差し引いても、あまりにみすぼらしい。
 駅に着き、ドアが開いたため、そのまま降りた。電車に乗っていることに息苦しくなり、とにかく地上に出ようと思ったからだ。ガツンッガツンッと駆け上がる音、階段を上るのがこんなにしんどいとは。動悸が激しい。体力が落ちたためなのか、それとも何かに怯えている緊張のせいなのか……。
 うっすらと光が見え、それに向かって駆け上がり、やっと地上出口に出た。
 太陽の鋭い光が目に突き刺さった。
「あちいな!」
 眩しそうに目をしぼめる。でも、皮膚に突き刺さる暑さじゃない。
 あのときの暑さはこんなんじゃなかった。
 頭で振り払おうとした記憶でも、身体はしっかりと覚えていた……。


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