詳細を抜いて曖昧な話を書くのが得意になった

最近ノートを書いていない。というか、ノートも自分のホームページの方もあんまり更新していない。それはなぜかというと、最近の活動が大学メインじゃなくてバイトとかそういうのメインになって、あんまりべらべら喋りまくることがないから。別に、秘密にしなければいけないとかそういうルールはないけども、特に公開することでもないから、書かないのであった。

とはいえ、公開してないけども、自分で日報とか日記みたいなのは付けておる。前までは、エーイ、何でもかんでもインターネットに全部公開したれ!という思想を持ってたけど、最近はちょっと落ち着いてきて、まあそんなに何でもかんでも情報を放流しなくてもええか、派に寝返りつつある。申し訳ない。

公開したら良いこともあるんだけど、悪いこともある。たまに人と会うときに、自分の近況を常に公開していると、喋ること全てにびっくりサプライズ感が減ってしまう。なので、今までの俺もそんなに全部を公開するというわけでもなく、美味しい話はとっておいて、会った人だけに喋るとかはしていた。だから、その点に関しては問題ないっちゃないけども。

いろんなジャンルの本棚へと向かう

最近は、俺の憩いの場所である本屋さんにもいっていなくて、悶々としていたんだが、ついこの間行ってきて、ずっと本棚を眺めておった。シヤワセだった。大学入ってからというものの、最初の方こそいろんなジャンルを貪るぜ!という気持ちでいろいろな本棚に手を出していたが、年月を経るにつれて(といっても2年もないけど)、見る本棚が収束していってしまっていた。これは良いことでもあるけど個人的にはあんまり目指したくはないなと思って、今回はちゃんと全てのジャンルの本棚を眺め倒してきて、遊んでいた。

ジャンルが収束するっていうのは、忙しいときには割と仕方がないことではある。例えば大学とかが忙しかったら、大学でやってることの教科書とか問題集とか、そういう場所に視野が集中してしまっても仕方ない。知能労働系の労働とかしていたら、そこでやっている仕事内容の分野に視野が引っ張られていってしまうのもこれまた仕方がない。

自分で言えば、直近の1年半くらいは確かに理工系の、それも工学系の所とか、プログラミング関連の所とか、そういうとこに視野が結構持ってかれていた。まあ良いことではあると思う。専門性みたいなのが何かしら芽生えてきたということだ。実際、プログラミングとか一般人の平均からすると多分めっちゃ出来る感じにはなったし、理系大学生として数学とか物理とかそういう話も一般程度には出来るようになったし、あと論文とかも書き始めるようになって、統計の話とか、論文の書き方とか、数値計算みたいな話にも馴染むようになってきた。あと地味に、英語が読めるようになった。

これはこれで良いけど、だからといってそれで本屋さんに立ち寄ったときに向かってしまう本棚が制限されてしまうのはおもろくない。これは結構、時間とココロに余裕があるときにしかできない活動かもしれない。リモートで時間もあり、夏休みでさらに時間とココロにも余裕があったので、そういうキモティを思い出すことができた。

古典てそういうことね

バイトとか大学とかやってきて、多少なりともいろんな人と関わって経験を持つことで、なんとなく、古典みたいなのの面白さがわかるようになってきた。自分が経験してなんとなく、これはこうなんじゃないかとか、これ、ああいうことじゃね?みたいなこと、実のところ、昔の人間が全部経験していて、しかもうまく言語化してくれて本に収めてくれているっていうことに気付いてしまった。

古典大事だよとか、古典は教養のために読むべし、とかそういう浅い話は結構聞いたことがある人も多いと思うけど、実際のところ、モチベーションがそれだけだと虚無になる。実社会に出て、様々なことを経験した上で、自分なりに人間社会でこういう経験したとか、これはこういう仮説立てられるんじゃないかとか、この部分は現代でもまだまだ発展途上だなとか、そういうのを積み重ねてみると、あ、これ、誰かがもうすでに経験してて、まとめてくれてそうだなということに気づく。

そしてそれが、実際のところ100年前とかどころではなく、数千年前から同じ現象があって、同じことを思ってまとめてくれてた人とかがいることに気づく。それ、あ、古典やんみたいな。

もちろん、こんなんちょっと考えればわかることではあるけれど、実際に経験してみたかどうかで、腹落ちが全然違うと思う。俺も多分、高校生くらいの時からすでに、そりゃ古典ってそういうもんだよな、結局同じ人間なんだから辿り着くところは似通っているでしょ、とかいう思考までは持ってたけど、実際にバイトとか大学とかで人となんかやって、体験を持ってみてからの納得度の違いと言ったらえげつない。

最近だと、自分の経験的に、最近のチウゴクとメリカの暴れ具合とか、大学の教育だいぶテキトーやなとか、研究活動ってこれどういう感じで歴史的に発展してきたんやろとか、そういうことに関心を持ったりしたのだが、それ、だいたいちゃんと議論というか、遡ろうとすると、結局なんか哲学屋さんの本みたいなところに辿り着いてしまう。で、これはだいたい世の中的には古典とか呼ばれていたりするので、ああ、そういうことか、となるわけ。

あんまり読めない

で、正直そういう古典、あんまり読めない。読めないというのは、出てくる単語が専門用語ばかりで、親和性が低いから読めない。例えば、大学教育の発展とか、そもそも教育の発展、大学の研究の発展とか、そういう話でも、しっかり過去を踏まえて議論しようとしてくる本は、カントとかデュルケームとかそういう名前出してこられるんだけど、読む側の俺としては、「いや、そう言われてもわかんないです。」っていう気持ちになる。そういう有名人の名前ならまだマシではあるが、そいつの思想とか、そういうのを表す専門用語、これは難しい。

一度理解して使いこなせばわかってくるんだろうということはわかるものの、自分が人生で触れた回数が少ないため、意味が入ってこない。意味がすっと入ってくるようにするためには、正直、その著者が書いたものとか、思想とかを読み潰して、そこで出てくる単語への親和性を高めるしかないのである、っていうことが語学学習の経験からわかっており、これは、長い戦いになるんですよ。

自分の中で、哲学って難しいワード使いまくってケムに巻いてるとこ多いやろ*1、っていう気持ちも多分にあるんだけど、そうではない部分の方が多いと思う。単に、ああいう専門用語っていうのは、それまではあまり考えられてこなかった概念で、それを最初に文書で提示したのがその哲学者だから、そいつから引用して、そいつがいってる通りの単語を使って、その概念を使おうぜっていうだけなのだと思う。で、まあ、そういった背景に詳しくない読者側としては、「はあ・・・そうなのですか・・・。」みたいな気持ちにならざるを得ない。別にこれは哲学的な専門用語に限らず、なんでもそうだけど。

そこで、「なるほど!そうですよね!」みたいな気持ちを持つためには、そういう専門用語で表される概念に触れる時間を増やして、親和性を高めるしかないんじゃん。

というところで、そういった古典を読むことへの難しさでした。

難しいんだけど、昔の人とココロ通じ合えたら良いよね、っていう気持ちもあるので、どこかでこういうところに時間突っ込みたい思いはややある。要するに語学学習と同じで、いちど時間を投入して仲良くなって仕舞えば、それまでのもの。時間はかかるとしても。

統計分析どこで身につけるの?

みんな、統計分析の知識をどこで身につけるのかな?独学ですか?相関係数とか、分散とか、そういうのはまあまあ良いとしても、分散分析とか、無相関の検定とか、そういった知識、どこで仕入れられているんですかね?

研究活動やるとなったら、否が応でも、というか、結構詳しくないとダメだよね。びっくりしたわ。なんていうか、統計学の知識と、特に最近だと機械学習の知識?リサーチやる人なら割と当たり前に身につける知識、という感じになっているんですかね?知らんけど

俺は、『Rによるやさしい統計学』で初歩のしょを身につけました。この本、結構よくないですか?説明がフェアな感じがする。でも、もう一、二冊くらいから吸収しないと染み込みがよくなさそうだなと思った。なんか良いのあったら、教えてくださいね。どちらかというと、こういうソフトウェアで解析している方が良いですね。昔の統計の教科書とか、まあ良いかもしれんけど、ちょっと無い。

どっちも公開しよかな

現状だと、noteとhtmlのホームページの方で、内容が別になっているんですが、noteで書いたものもhtmlの方に共有しておこかなという思いがアリンス。

脚注 

*1 『知の欺瞞』という本に出会うのが早かったから、こういう印象は拭えない。

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