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【自己紹介】とある女の子が夢を叶えるまでのお話

はじめまして、こんにちは、お久しぶりです。
たかれんと申します。

これまで、有難いことにいくつかのメディアから取材を受け、わたし自身の原体験やフリースクールRizの活動について紹介していただきました。(数えてみたら、講演やメディア出演なども含めて13回でした。有難い。)

でも、自分自身の言葉で自分のことを記したことはあんまりなくて。
ひらやまさんから「なかむらさんは自己紹介書いたほうがいい」と再三言われ、ようやく筆を執ることにしました。(ありがとう、ひらやまさん。)

すべてを書こうとしたら終わる兆しが見えなくなってしまったので、「幼少期~Riz設立」を範囲にしています。広いな。それでは、どうぞ。

あらすじ
熱量だけは一丁前な女子中学生が夢を抱くも現実に打ち砕かれ、彷徨う日々の中で人との出会いや自己の体験から夢を再発掘する、という話。

不器用で見栄っ張りだった子ども時代、ただただ孤独を抱えていた

子どもの頃、わたしが生きる上での最重要事項は「迷惑をかけないこと」でした。
家族にも、先生にも、地域のおじちゃんおばちゃんにも、友達にも。

「わたしは、家族の負担になってはいけない」
「わたしは、誰かの手を煩わせてはいけない」
「わたしは、誰かに助けを求めてはいけない」

そこまで明確に言語化していたわけではないけれど、心の中はそういうことばかりを考えていて。

とにかく人様に迷惑をかけないこと、ただそれだけを気にして生きていました。(そうなったのは、いろいろ家庭の事情とかあるのだけれど。長くなるのでまた後日まとめます。)

小さな傷に、確実に歪まされていく心

そんな性格だから、中学に入学してすぐいじめに遭った時も誰かに助けを求められるはずがなく。ただ独りで耐える生活でした。

毎日、こちらの手は届かない距離から悪口を言われて。
忘れ物をすればすぐに揶揄され、髪を切るだけで笑われる。
前の席から渡ってくるプリントには、茶色い足跡。「ごめんねぇ、落としちゃった」笑顔で言う女の子。
わたしのところにだけ回ってこない連絡網。

ニュースになるような大袈裟な事態には発展しなかったけれど、地味で執拗な嫌がらせは、少しずつ、でも着実にわたしの心を蝕んでいきました。

やがてどうにもならなくなって担任の先生に相談したけれど、先生は、わたしが名前を挙げた人たちを呼び出して直接「嫌がらせしてるって聞いたぞ。そういうの、やめろよ」と注意をしておしまい。

多くの人は想像できると思うけれど、やっぱりいじめはより悪質に、陰湿になっていきました。

そしてある日、いつも通り授業の支度をして家を出ようとしたら、身体を動かせなくなったんです。

その日は昨晩からずっとどんよりとした気持ちで、頭の中は「学校に行きたくないなぁ」と「でも行かないとなぁ」が占めていて。
食事中も、着替えているときも、とにかく心と身体が重かった

それでも家族には言えなくて、教材と筆記具だけとは思えない重みのあるリュックを持って玄関へと向かいました。

でも。
身体が動かない。

靴も履いたのに、リュックも背負ったのに、立ち上がれない。
玄関の扉を開けられない。

そのまま涙がこぼれ落ちてきて、止められなくて、止めたくないような気持もして……、母に「お願いだから今日は休ませて」と伝えました。
学校を欠席すると驚くくらいすぐに気持ちは凪いで、涙もきゅっと引っ込みました。

その後両親に学校であったことを伝え、わたしは不登校になったのです。

どうせ変わらない。わたしなんてどうでもいい。わたしには価値がない 

幸い父も母もすんなり不登校を受け入れてくれたけれど、わたしは何一つ相談する気になれませんでした。

心配をかけたくなかったし、不登校になった時点で迷惑かけまくりなのにこれ以上負担を増やすことはできなかった。
そして何より、親から「可哀想な子」として見られたくなかった

別に信頼していなかったわけではないけれど、不登校になっても尚、わたしは「自分のことは自分で解決しないといけない」と考えていたんです。

それに、家族だからこそ、怖かったんです。
相談して、打ち砕かれるのが。

先生に相談して解決できなかった時のように、友達に相談して「そんな弱い人だと思わなかった」と言われた時のように。
一生懸命伸ばした手が空を切るのが怖かった。

すべての相談が解決できるわけでも、すべての相談が受け入れられるわけではないこともとうの昔に知っていたけれど。
知っていたからこそ、その賭けをする気になれませんでした。

もう、疲れちゃったんです。
一人ひとりと言葉を交わすことに疲れて、括ったほうが楽に思えた

「大人は信用できない」
「学校には敵しかいない」
「誰一人として、自分の味方になる人なんていやしない」

それ等の思い込みはわたしをズタズタに切り裂くものでもあったけれど、これ以上の苦しみを避けるためのものでもありました。

孤独の中で自分の価値を保つのはしんどいものです。
だって、自分に価値があるとしたら、おかしいじゃないですか。

クラスメイトから生々しい敵意を毎日毎秒向けられるのも。
先生があの相談以来一切わたしにコンタクトを取ろうとしないのも。
事実を知るはずの両親が「そろそろ学校に行きなさい」と言い続けるのも。
いじめを受けていた頃からよく相談していた数少ない友人の一人から毎日のように悪口のメールが届き始めたのも。

おかしいじゃないですか。

だから当時のわたしは、自分の価値を下げることで、現状との整合性を保とうとしたんだと思います。

誰に何を言ったって、何をしたって、どうせ何も変わらない。
わたしは、誰にとってもどうでもいい存在なんだ。
わたしには、価値がないんだ。

そういう乱暴な言葉を自分にぶつけることでしか、わたしは耐えられなくなっていたんです。

この人の“誇り”になりたい 

学校に行かず、家族とも話そうとしないわたしを心配してか、夏休みのある日、父が「転校しないか?」と声をかけてきました。

将来への不安もあったし、「このままではいけない」という気持ちも持っていて。
わたしは中2の2学期が始まると共に、市外の学校に通い始めることを決めました。

ただ正直、期待はまったくしていませんでした。
学校にも、先生にも。

でも、父と一緒に学校へ行ったとき、新しい担任の先生が、まずわたしに目を合わせて挨拶してくれたんです。

ほんの一瞬だったけれど、わたしにはその一瞬で十分だった
その一瞬だけで、「自分のことを気にかけてくれる大人がいる」という事実を理解できたんです。

わたしの声は、ちゃんと誰かのもとに届くんだ。
きちんと言葉で伝えれば、聴いてもらえるんだ。
自分の望むことをお願いしてもいいんだ。

その後、教室へと向かう間も「前の学校のことはあまり話題に出ないようにしたほうがいい?」「部活は前と同じのに入りたい?」などと丁寧に質問してくださいました。

そして、わたしが出した要望はできるかぎり応えてくれたんです。
それも数日後に様子を訊ねてくれるアフターフォロー付きで。

実は転校先の学校でもいじめを受けたのですが、変に味方するわけではなく、きちんと両者の言い分を聞いてくれて。
聞いた上で、それでもいじめという手段を取ってはいけないこと、クラスメイトを深く傷つけたことなどを、丁寧に相手に伝えてくれていました。

「君たちは、彼女(わたし)が泣かないし弱音も言わないから、この程度の悪口なら、この程度のイタズラならいいと思っていたかもしれないね。でも見てごらん。彼女は、本当はとてもつらかった。悲しかった。やめてと叫びたかった。しかし彼女は、強がってしまったんだ。強がらせたのは、叫べなくさせたのは、他でもない君たちだよ。それを忘れたらいけない」

確か、そんな言葉だったと記憶しています。
さらにその後、わたしに対してもしっかりと言葉を伝えてくださいました。

「君は強い人だよ。前の学校で不登校になってしまったのが不思議なくらいに。きっと色々なものを乗り越えてきたのだろうね。大丈夫。自信を持ちなさい。君は、とても強い人だ」

「不登校だった可哀想な子」ではなく、「ただの一生徒」として。
たいへんフェアに、誠実に接してくれたその姿勢に、報いたいと思いました。

わたしは、「この人が『この子の担任だったんだよ』と自慢できるような人になりたい」と考えるようになりました。

だから授業も一生懸命受けて、その先生のテストだけはいつも他の教科より頭一つ抜きんでていました。
中1からの半年分くらい勉強はすっぽ抜けていたから、成績が良いわけではなかったけれどね。

と同時に、「先生」という職業への憧れも抱くようになりました。

あれだけ学校が大嫌いだったわたしでも、たった一人の先生と出会えるだけで、こんなに学校のことを好きになれたんだ。
だったら、他の学校が居づらい子たちも、信頼できる人を学校にたった一人でも見つけられたら、少しその思い出は変えられるかもしれない。

わたしは、そういう存在になりたい。

3年生に上がる時担任の先生が変わったので、あの先生に直接お世話になったのはたった7ヶ月程度。

でも、その間にわたしは学校を好きになり、勉強が好きになり、かけがえのない友人と出会い、「教育に携わる」という将来の目標を見つけることができたのです。

学ぶって楽しい。教えるって楽しい。もしかして、天職見つけちゃえるのかも

その目標を見つけてからは、それまで以上に熱心に勉強に励むようになりました。
特に高校時代は、同級生に勉強を教えたり、帰国子女や外国籍の子どもに勉強を教えるボランティア活動に関わったりしていました。

学ぶことも教えることも楽しくて、分からないことに出合えるのがひたすらに嬉しかった。

学校での勉強だけでなく、個人的に参考書や問題集を購入することもあったし、テレビで見かけた科学実験について自分なりに考察することもありました。
「消しゴムを凍らせて自然解凍すると爆発するのはなぜ??」みたいなね。

人に教えることは、知識を与えるという行為なだけではありません。
人に教えることは自分が教わることでもあり、いつも新たな発見がありました。

普段の勉強も、自分のためだけに取り組むのと、人に教えるために学ぶのとでは、理解度が違います。
自分が取った100点よりも、教えた同級生の100点のほうがよほど嬉しかった。

人に教えるのが、こんなに楽しいなんて!

この楽しさを知ったときの感動は、今でも忘れられません。
当時の雲の数まで覚えているような、そんな鮮明さがあります。

学ぶのが楽しい。教えるのは、もっと楽しい。
わたしの中に小さく芽生えた「教育に携わりたい」という想いは、いつしか「数学の教師になりたい」という明確な目標へと育っていきました。

消えていく命と時間、膨らむ焦燥感

そのまま教員免許の取得を目指して大学進学しました。
教育について、数学について、より広くより深く学ぶ講義はどれも楽しかった。……けれど、徐々に違和感を持つようになっていきました。

教師の仕事は、なにも「子どもに勉強を教える」だけではありません。

毎日毎日、授業をして、事務処理をして、保護者の方とやりとりをして、部活動を見て……。

そんな中で、いったいどれほどの人が、十分な教材研究をできているのでしょう。
子どもたち一人ひとりの目を見て会話できているのでしょう。
(制度の改善に取り組む学校・自治体もありますが、やはり多くの場で、先生は多大な業務を孤独に抱えているのです。)

そんな教師の忙しさや学校制度・教育制度の難しさを目の当たりにして、わたしの中の迷いは、少しずつ大きくなっていきました。

わたしは、このまま教師を目指していいのだろうか??

当時はまだ、大学2年生の夏。
これから2年以上の歳月をかけて学び、免許を取得し、採用試験を受け……、子どもたちに居場所を提供できるようになるのは、まだまだ先の話です。

わたしが子どもたちに直接手を伸ばせるようになるのはいつなんだろう。
担任を持てたとして30人~40人いる子どもたちにどれだけ時間を割けるんだろう。

高校在学当時から、ニュースなどで先生の忙しさは見聞きしていました。
理解はしていたけれど、でも実感としてこう目の前に出されると、途端に不安が膨らみました。

「子どもたちの居場所を作れる教師になりたい」という理想と、「たくさんの業務を抱え、一人ひとりの子どもまではなかなか手が回らない」という現実。

そのギャップは教職について学べば学ぶほど広がっていき、今進んでいる道の先は果たしてどこへ繋がっているのか、このまま進んでいいのか……。
まるで、人生の迷子になったような感覚でした。

求められているものと、提供したいものの差

迷いを持ちながらも、夏休みが明けた後は大学に行き続けていました。
それでもやはり、学べば学ぶだけ現実が突き付けられます。

先生の労働環境や、現行の教育制度では、どうしてもわたしの理想の実現は難しい。

先生には常に「フェア」であることが求められます。
しかしそれは、「平等」であって「公平」ではありません

例えば紙の本を読むのが苦手な子どもにタブレットを渡すとか。
集団での活動に馴染めない子どもに別室での個別指導をおこなうとか。
学校に行けない子どもに定期テストの在宅受験を認めるとか。

どこまで個別に支援してよくて、どこからは「えこひいき」と揶揄されるのか?

みんなが同じ条件で、同じ空間で、同じ相手から学べば、確かに不平等はないのかもしれません。
でも、わたしが解決したいのは「不平等」ではないのです。
「不公平」を解決したかったのです。

自分自身、いじめによってクラスを追い出され、学びたいのに学べない期間が長かったから。
不当にクラスに居られなくなるようなことはなくしたかった。せめて、教室で集団授業を受けられない・受けたくない子にも学習する機会を提供したかった。

今考えると、わたしが感じていた理想と現実のギャップは、「今の教師に求められているもの」と「わたしが教師として提供したいもの」の差だったのかもしれません。

「これじゃあ、子どもたちを助けられない」 

そしてこの夏も、たくさんのニュースが流れていました。
中学1年生の男の子が……。小学5年生の女の子が……。学校は認めておらず……。生前書かれていた日記には……。

救いがない、惨すぎる、もう言葉さえ絞り出せないような知らせが、いくつもいくつも届くのです。

わたしが今のまま進んで、仮に理想に届いたとしても、数年はかかります。いえ、十年以上、もっと長い時間がかかるはずです。

それじゃあ、ダメなんです。
その間に喪われる命があっちゃ、ダメなんです。
未来の幸せのために、今を生きる子どもたちを犠牲にしたくないんです。

未来を生きる子どもたちも、今を生きる子どもたちも、その周りの大人たちも、全員幸せにしたいんです。

今のまま、これじゃあ、子どもたちを助けられない。
教師をこのまま志すことはできない。

漠然としたモヤモヤは、ハッキリとした意志となりました。

「教師を目指す」という目標の消滅は心細くもあったけれど、同時に可能性も感じていました。
それはきっと、大学生活を通じてたくさんの人と出会いたくさんの知見を得たからです。

未来に希望を見つけたくて縋った「夢」との別れは、わたしに「あなたは、現実と向き合う準備ができているよ」と知らせてくれるサインでもあったのだと思います。

現実と理想の狭間にいたら、電車に乗ることさえできなくなった

とはいえ、すぐに新しい目標が見つかるわけではなかったので、葛藤しながらも大学には通っていました。

ただ、もともとフィジカルがメンタルに引きずられやすい性格だったのもあり、段々と講義に集中できなくなって。
15分前行動が当然だったのに、なぜか遅刻してしまう。
締め切りの3日前には仕上げていたのに、なぜかレポート課題が進まない。
90分真面目に講義を受けていたのに、なぜか講義が始まると共に睡魔に襲われる……。

そしてある日、大学の最寄り駅で降りれなくなりました

いつも通りに電車に乗ったのに、乗り過ごしてしまう。折り返さなきゃと向かい側のホームに移動し、ベンチで電車を待つ。来る。発車のベルが鳴る。ドアが閉まる。電車が駅を出ていく。わたしは、ベンチに座ったまま。

電車に乗れない。体が動かない。

行かなきゃと急ぐ心とは裏腹に、体はべっとりとベンチに張り付いているようで。
気づいたら涙が出てきて、何かに縋るように反対方向の電車に乗りました。

「ごめんなさい。半期分の学費、ドブに捨てることになっちゃいます」

その後、当時お世話になっていたコミュニティスペースへ行き、親しい人たちに話を聴いてもらってなんとか落ち着いて。
帰宅してからは、あの時の焦りも不安もなく、比較的穏やかな気持ちでした。

それでも、根本的な問題が解決されたわけではなく。
翌朝になれば、また身体と心は離れていきます。

一週間休んでもまったく事態は好転せず、なし崩し的に休学することが決まりました。

秋期の学費は支払い済みだったので、父には「ごめんなさい。半期分の学費、ドブに捨てることになっちゃいます」と頭を下げました。

今考えると、秋期に通った日々は決して無駄ではなかったし、当時のわたしは本当によく頑張っていたから、「ドブに捨てる」と表現するのはいささか乱暴なようにも思います。

それでも「教員免許を取る」という目標のためだけに動いていたわたしにとって「休学」は、「教員免許を取れない」という事実の証でしかありませんでした。

自分の努力を認めることも、自分を励ますこともできなくて、ただ目の前に「ゼロ」が突きつけられたように感じていたんです。
全部、ゼロ。無駄。時間も、体力も、お金も、すべて。

その後、父から「やっぱり半期分の学費はどうにもならないみたいだけど…」と言われ、なかなかに精神的ダメージを負ったりもしました。

分かってたよ。問い合わせたよ。申し訳ないと思っているよ。
それでも、無理だったんだよ。

反発とも反省とも孤独とも取れるようなぐちゃぐちゃの感情で心がいっぱいになって、ただ曖昧な表情で「すみません」と呟くことしかできなかったのを覚えています。

大学には行けない、でも何かしなきゃいけない

休学自体はスムーズに受け入れてもらえたものの、「このままじゃいけない」「何かしなきゃいけない」という焦りは常に抱えていました。

でも体力も精神力も尽きていた当時のわたしは、出かけることも、何かを学ぶことも、生活を維持することさえままならず……。

ただ一日中テレビ画面を眺めていました。
芸人やタレントが何かを話していたけれど、その内容なんて1ナノメートルも入ってきやしません。

幸い食欲はなくならなかったので、食事はしっかりとっていました。
睡眠欲はめっきりと失せ、眠たくないのに身体が動かない状況だったけれど。

同年代の人は今日も大学に行って課題をこなしてバイトもしているんだな、と思うと涙が出ました。
やがて涙も枯渇して、「泣くことすらワガママなのではないか」と、「泣くほど頑張っていないじゃないか」と、自責の念も湧いてきました。

半年ほど経った頃には体力も精神力も安定してきたけれど、大学に戻ることはできませんでした。
ただただ、「動かない体」と「焦る心」の間で板挟みになるばかり。

何か。何かしなきゃ。うみださなきゃ。

ただ消費するだけの日々はもう耐えられませんでした。
「あんたなんか必要ないよ」と社会から言われるのが怖かった。

社会というものの中に自分のスペースすら無くなることは、もっと怖かった。

アルバイトをして初めて「自分の行動に価値がある」と思えた

体力は徐々に回復してきているけど、大学には行けない。何かしなきゃ。
そんなわたしに声をかけてくれた友人がいます。

「もし身体が元気なんだったら、アルバイトしない?」

その人が当時働いていた会社でライター・編集者を探している、とのことでした。
その人は前々から「れんちゃんは文才あるよ。そういう仕事したらいいのに」と幾度となく言ってくださっていて、その言葉を信じて引き受けることにしました。

特に編集はほとんど未経験のようなものだったから四苦八苦したけれど、自分の担当した記事が週間PV数で上位にランクインしたり、SNSでの反応が良かったりするのが純粋に嬉しくて。
段々と「この会社に寄与できている」という実感が持てるようになりました。

初めてお給料の明細を見たときに抱いた感情は、言葉にできません。
これまでもアルバイトは何度かしていたけれど、どちらかと言えば「言われたことを忠実にやる」ことが大切で、「自分で考えて行動する」類いの業務は初めてでした。

自分で考え、行動し、提出した。
その記事に、価値がある。

そう認められたようで、自信が湧きました。

家のことや体調のことが重なって一年ほどで辞めてしまったけれど、あの一年があるからこそ、わたしは胸を張って生きていけているのだと思います。

今すぐに、場所を作りたい。現状を捨てることに迷いはなかった

その後、友人(あの仕事を紹介してくれた人)が、「れんちゃん、よかったらフリースクール作らない?」と声をかけてきました。

彼と、彼の同僚との間で「学校に行きたくない・行けない子どものためにリアルの居場所を作ろう」という計画が立ち上がったのだそうで。
彼には以前から「10代の居場所を作りたい」「学校をより良くしたい」といった想いを伝えていたので、わたしにも声をかけてくれたようでした。

「れんちゃんはまだ大学に戻る選択肢もあるし、ゆっくり考えてくれていいんだけど……」
そんな前置きがあった気もするけれど、わたしの中では即決でした。

やりたいです。
わたしのできることなら何でもします。

「今持っているものを捨てて新たな場へ踏み出すこと」に迷いはありませんでした。
周りの人にはめっちゃ止められたけれどね。

今ある(少なくとも世間一般に知られている)職業ではわたしの理想は叶えられない。
そんな現実の中、「フリースクールを立ち上げる」という道は、わたしの理想を叶える方法のひとつに他なりませんでした

今すぐに、場所を作りたい。
今この瞬間に苦しんでいる子どもたちに手を伸ばせるようになりたい。
「ここに来ていいんだよ」と伝えつづけたい。

フリースクールなら、子どもたち一人ひとりに合わせて対応することができます。
タブレットを勉強に利用することも、個別に話をする時間を取ることも、フリースクールを飛び出て外で学ぶことも、なんだってできるんです。

届かないと諦めかけた理想が、その気になれば叶えられる場所にある。
そう分かったとき、選択に迷う理由はありませんでした

フリースクール設立を決めてからはトントン拍子で(もちろん難しいことや課題もあったけれど)、2018年6月にフリースクールRizは始まりました。

今この瞬間に、独りぼっちで苦しんでいる10代はたくさんいると思います。
たった一人でも、味方だと思える人がいたら、その未来はちょっとは明るくなってくれるのではないでしょうか。

その可能性のひとつを作りたくて、Rizを立ち上げました。

いよいよ正式オープン!Riz設立に込めた想い - Riz

(当時のブログを振り返って、一貫した想いを持ち続けられていることに安心しました。これからもこの気持ちを忘れずに生きたいものです。)

そして、

そして、今。わたしは目黒区にフリースクールを構え、日々子どもたちとの交流や記事の執筆、他団体との協力などに勤しんでいます。

まだまだ問題は山積みですが、Riz設立から一年が経ち、少しずつ、子どもたちの居場所を作り……。
家族も先生も含めたすべての人の味方になれている実感を得られています。

子どもたちの居場所を作りたい。
10代の子が、ひとりで悲しい決断をしないで済むような世の中にしたい。
子どもも、親も、先生も、誰も自分を責めることなく、やさしさとあたたかさで包みたい。

15歳の時から持ち続けたその夢の一歩目、本当に小さな、小さな一歩かもしれないけれど、やっと踏み出せました。

こからも慢心せずに、常に一人ひとりに目を向け、その人その人にあったサポートをできるよう努めていく所存です。

とにかく人に恵まれた人生だった 

こう振り返ってみると、「とにかく人に恵まれた人生だったな」と思います。

両親はとても不器用な人ではあるし、今でも「子育てに向かない二人が結婚したなぁ」とよく思うけれど、それでも彼らなりの愛情を届けようとはしてくれていました

実際、二人ともフリースクールのことは応援してくれています。
母の小言や父の的外れな物言いに遭遇すると溜息が漏れますが、それはそれで仕方ない、と自分で踏ん切りをつけられるくらいにはなりました。

中学一年生のときのクラスメイトと先生だけは「自分に合わない人が集まったなぁ」の一言。
だけど、転校先ではいい出会いにたくさん恵まれたし、小学校時代はそれなりに青春していました。
一丁前に告白したりされたりもしてた。楽しかったなぁ。

将来の道しるべを与えてくれた恩師や、初めて執着心を持たせてくれたクラスメイトには頭が上がりません。
いつか、直接会ってありがとうと伝えたい。

他にも、今関係性が続いているかどうかを問わず、たくさんの方に支えて、助けて、救ってもらってきた人生でした。

こういう話をすると「まだ若いのにすごい」「自分が同い年の時は……」と言っていただくことがあるのですが、わたしができることは決して多くはありません。むしろ少ない。
わたしにできるのは、せいぜい、実現したい想いを発信し続けることくらいです。

フリースクールを設立できたのだって、たくさんの方が力を貸してくださったからこそ。
わたしが今やりたいことを仕事にし、まぁまぁそれなりの生活をできているのは、間違いなく周りの方のおかげです。

だから、ここまで出会ってくださったすべての方に、この場を借りて、改めて感謝を。

***

この物語は、一旦ここでおしまい。でも、続きがあります。
言うなればこれは、「わたしの人生の前編」のようなものです。

後編では、これからRizで何を達成したいか、どんな姿勢で子どもたちと接しているのか、そんな「今と、未来」について話したいなと考えています。(書き進めてもいる。)

まずはここまでの「過去」についての話を、自己紹介とさせていただければ幸いです。

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続編、書きました!!

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cotree advent note

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