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Everything Everywhere All At Once at that Circus Night

あれは素朴で、素敵な夜だった。

地元のカフェで、大学の後輩と2人でアコースティックの弾き語りをさせていただいた。七尾旅人さんの名曲から取って「サーカスナイト」と名付けられたそのイベントでは、1人または2人で生演奏のみ、30分以内の演目を持ち寄った人々が順に演奏していくというものだった。絵描きさんの営むそのこじんまりとした木造のカフェの中で、私たちは4曲の歌を歌った。僕がピアノを弾き、彼女が歌う。僕も時々歌う。聞き手は半分はカフェの常連さんたちで、子供の発表会を見るようなあたたかい目で演奏を見守ってくださった。もう半分は遠くから足を運んできてくれた大学時代の同期と在学中の後輩、そして歌い手のボーイフレンド。みんな合わせても10人か15人くらいの空間だったが、自分達の好きな音楽を、誰の気も遣う事なく自分の好きな人たちに生で聞いてもらえる以上に幸せなことはなかった。電球が小さなカフェを照らすオレンジ色のように、僕の心もあたたまっていた。

演奏会も終わり、観にきてくれた友達と近くの焼肉屋でご飯を食べて、帰っていく皆を見送った後、私は初めて音楽で稼いだ投げ銭1500円くらいを握りしめて1人都電荒川線沿いを歩いていた。夜風の涼しい気持ちの良い夜だった。

僕はそのとき、少し前に観た「エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス(なんでも、どこでも、一気に)」という映画のことを思い出していた。今流行りのマルチバースを扱ったカンフー映画と思いきや、伝えたいことは全然別なところにある、しっちゃめっちゃかだが心温まる不思議な物語だった。

主人公のエブリンは、アメリカでコインランドリーを営む主婦で、どこか頼りない夫と若干グレた娘にイライラしながらギリギリの家計を回している。彼女には歌手になりたいという夢や女優になりたいという夢など様々な憧れがあったのだが、どれも上手くいかず今の状況に陥っていることにフラストレーションを抱え続けている。そんなとき、並行世界から来た夫(え?)に世界を救うように頼まれ(え?)さまざまな並行世界の自分の能力をインストールして敵と戦っていく。エブリンはその過程でハリウッド女優として大成しレッドカーペットでドレスに包まれた自分の姿や、歌手になった自分を目の当たりにし、今こんな冴えない状況になってしまったのはこんな夫と一緒になったせいだ!と現実世界への夫に怒りを募らせ、一方で別世界の男らしい夫に惹かれていった。
そんな中で、エブリンが別世界の夫に言われたセリフが心に残った。「私は何も成功していない、1番ダメなバージョンの私だ」と嘆くエブリンに対して「何も成し遂げてないからこそ1番可能性のある最強のバージョンじゃないか!全ての挫折を経験してきている最低の君にしか世界は救えない!」と説得するのだ。


僕は小さい頃母の理想の子になるよう育てられた。生まれつき身体が弱くスポーツや肉体的なことでは勝ち目がないと判断した母は、僕が劣等感を感じないで生きていけるように勉強とピアノを教え込んだ。僕は小さい頃はそれらを楽しみ、母と二人三脚で打ち込んだ。小学校では無類の天才であったし、ピアノでは中学3年生までのコンクールを小学2年生で優勝し、新聞に名前が載った。あの頃の自分はまさに何にでもなれたと思う。しかし、母の理想はどんどん高くなり、代わりに僕には自我が芽生えていった。楽譜をなぞる反復の日々よりも友達と遊ぶ放課後を求め始め、母との対立は激化していってしまった。やがてその対立は家庭にまでヒビを入れ、僕は母との壮絶な対立の末父に引き取られた。家庭は崩壊し僕の心は壊れてピアノは弾かなくなり、勉強もしなくなってしまった。高校のある時点から徐々に勉強についていけなくなり、今度は1人で頑張ろうとしたが、常に母と2人で歩んできた僕は1人で自分を律することができなかった。
ピアノに関しては楽譜を見てクラシックピアノを練習することには興味がなくなってしまい、代わりにJpopを耳コピして弾いたり、自分で作曲したものを弾いて録音するようになった。
また、その頃から僕は細々と続けていた手品に飽きてしまい、サークルに行かなくなった代わりにブレイクダンスを始めた。身体が弱く運動は全てビリだった僕に最も向いていない挑戦だったが、だからこそトライしたかったのかもしれない。しかしブレイクダンスでも成功を収めることは出来ず、周りの成長スピードに置いていかれ、レッスンに行っても先生に愛想を尽かされるほどの上達の遅さだった。

そう、僕も多分宇宙で最もダメなバージョンなのだ。大体全ての選択を誤り、下に落ち続けている。長くそう感じ続けてきた。

しかしそんな僕にも面白いことが起こった。

大学の卒業間近、研究室で後輩と音楽の話をしている時に歌が好きでアコースティックバンドをやりたいと思っていることを知り、卒業パーティーで演奏をしてみようという話になった。そこで僕は長く1人で家でJpopの耳コピをして重ね録りして遊んでいた時代に培った能力でみんなのコーラスの楽譜を考えたり伴奏を作ったりした。演奏会は大学で小さな好評をおさめ、それでは終わらずついにカフェで小さなライブをすることができた。

また、同じ時期に、Twitterに上げていた自分のブレイクダンスの動画が昔所属していた手品部の先輩の目に留まり、彼の主催する舞台にダンサーとしてオファーしていただいた。そして手品の舞台でたった1人ダンサーとして踊り、かけがえのない経験をした。

もし僕がクラシックで大成していたら、学業を成していたら、もし手品がめちゃくちゃ上手くなっていたら、もしブレイクダンサーとして活躍していたら、それはとても素敵なことだけど、この経験は出来ていないんじゃないか、と僕は少し誇らしくなった。何か一つを極めている世界の自分は、きっとどれもパッとしないけどこんなに面白い経験をしている僕を少し羨ましく思うだろう。何一つ極められなかった僕にしか出来ないことが、この世界にはある。

映画の話に戻るが、別世界の男らしいエブリンの夫は、やがてあっさりと戦いに負け、死んでしまう。対して現実世界の夫は必死に「戦うことをやめられないかい?僕たちは優しくいなけりゃいけないよ!」とエブリンに必死に語りかける。やがてエブリンは敵のトラウマや辛さを一つ一つ解消していき、受け入れて戦いを切り抜けていく。そして驚く夫に向けて「あなたの戦い方を学んでいるの」というセリフと共に額に目のシールを貼る。これは彼女がないものねだりをやめ、身近な場所から学んで自分を成長させた=開眼したということだろう。そして騒動が終わった後、家族で仲良くカラオケをし幸せを噛み締めるシーンで映画は幕を閉じる。

人生は決して自分の思う通りにはいかないし、失った可能性を悔やみ、羨むことは避けられないだろう。しかし、そんな自分の人生も数え切れない選択と偶然が繋げたかけがえのない一つであり、他の自分が羨んで決して届かない人生の一つであることに気付けるだろうか。そんなことを教えてくれた映画だった。

そしてサーカスナイトの素敵な時間は、僕の人生がかけがえのないものであることを見せてくれた大切な1ページとして心の隅にあたたかく輝き続けるだろう。



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