祖母の復讐2
(2021年春ごろの手紙2)
私は、伯父に連れられて、何度か祖母のお見舞いに行きました。
祖母と意思の疎通は、できなかったと思います。
祖母の目は、ひらいていましたが、祖母は声を出しませんでした。
声が、出なかったのかは、わかりません。
祖母は、同じ部屋に並んだベッドの中にいる人たちと同じように、小さくなった体を、ベッドの柵内におさめられていました。
時々、看護師さんが、機械で祖母の喉から痰を吸い出しに来てくれました。
乾いた目やにが、祖母の目頭から、まつ毛の間、下まぶたのふちを固めていました。
私の祖母は、ゴコー、コォー、というような、遠い台風の日の隙間風みたいな音で呼吸をし、何も、動きませんでした。乾いた口の匂いがします。
祖母に、こちらの声が聞こえているのか、こちらの姿が見えているのか、私には、わかりませんでした。
伯父は、祖母のいる病院へ洗濯物を届けに、脚繁く車で通いました。
私は、あまり、祖母に会いたくありませんでした。
臭かったからです。
病院全体が、独特に嫌な匂いでした。
祖母が入院した病院は、のちに、祖父も、私と一緒に入院しました。
祖父が肺炎になった場合や、夏の暑さに祖父の建てた家の設備では対処できない場合、祖父の避暑と避難のために、私も一緒に、1〜3ヶ月くらい、24時間付き添い入院することになる病院です。
他の入院患者さんは、ほとんどの人が一人でした。
多分、家で世話できないお年寄りを、入れておくための病院でした。入れておいて、亡くなるまで。
病院の壁の中は、おしっこと、うんちと、体の皮膚の匂いがします。
汗の匂いは、あまりしません。
汗よりは、時間の経った頭の脂と、死にそうな人の体の匂い。
私は、祖父の建てた家で、祖父が亡くなる少し前から「死んだ人の香りがする。」と思うようになりましたが、あの匂いと混ざり合い、いいえ、混ざり合わないから、頭の中で、匂いと匂いが衝突し、私はぐらぐらしていました。
それで、私は、祖母のお見舞いに、行きたくありませんでした。
祖母の、あいたまま乾いてゆく、目の表面を見ること。
祖母の鼻の穴の下の皮膚が、もろもろに剥がれかけている。
お人形の着せ替えみたいに、祖母の糸骨みたいな体の形と、変な花柄のパジャマの形が、ぶかぶかに馴染んでいない様子。
雨戸の隙間から入り込むような、きしんだいくつもの呼吸音。忙しそうな看護師さんたち。
ミトンみたいな拘束具で、ベッドに縛ってある、よそのお家の患者さん。
廊下に響く叫び声。伯父のかいがいしそうな動きから、私が感じる、白々しさ。
私は、こちらへ反応を返せない人を、自分が一方的に見つめ続けることの、おそろしい後ろめたさが、嫌でした。
何が「おばあちゃんはきっと聞こえているから、話しかけてあげて。」だ。
この人(祖母)は、私のことを、私が引き取られた最初から明らかに丸出しで大嫌いである人で、今なら多分、私は、これを、殺せてしまう。
そんな私に話しかけられるだなんて。絶対、祖母は嫌だと思う。
何が「おふくろさん、洗濯物を持ってきたよ。」だ。
あなた(伯父)は、その人(祖母)を、裏面ではひどく恨んでいるでしょう。
あなたは、自分の母親(私の祖母)とその母親が、
「おまえは長男だから賢い。長男だから可愛い。長男だから偉い。長男だからそんなことしなくていい。長男だから大事。やっぱり長男はいい。」
と、あなたを甘やかすようでいて、その実、あなたがどんな気持ちで、どうしたくて、何を感じているのかを、全く考慮されなかったことを、
つまり女の人たちから自分が人間扱いされなかったことを、深く恨んでいるでしょう。
あなたはそれで、
「女の人と男の人は、もともと脳の作りが違って、女の人は物を考えることに向いていないから、背伸びしないでいいんだよ。
**も早く結婚して、子供をたくさん産んだらいいよ。
女の人は、そういうのじゃないから。女の人は、バカなくらいが可愛いから。
やっぱり女の子はお尻が丸くなってきていいね。おっぱいも出てきたんじゃない?」
と、私に言い続けたでしょう。
私が女の人であるかどうかはともかく、あなたは深く、「女の人」という概念を、羨み、恨んでいるだろうが。うそつき。行かない。
そんなことを、当時の私は、考える言葉を持たなかったので、これは、今の言葉の私です。
当時の私は、ただ、気詰まりでした。
死んでいないおばあちゃんが、しかしずっと病院にいること。「正解の孫」の振る舞いを、自分が見つけられないこと。
祖母は、ずっと寝たきりで入院のまま、私が高校生の夏に、亡くなりました。
私は、その時、いつも通り、自助グループにつながるまでの私は、何が起きても、いつも通り、「ああ、そう。」と、思いました。
ああ、そう。それで、じゃあ、どうしようか。
あとで、当時の私は、表す言葉を持ちませんでしたが、今の言葉の私でいうと、よかった。と思います。
よかった。おばあちゃんは、これで、もう、苦しくない。
目やにでがびがびのまつ毛も、痰吸いで喉深くまでチューブを突き入れられることも、洗わない皮膚が剥げることも、床ずれも、乾いた口の嫌な匂いも、全部燃える。
「おばあちゃん、生まれてから、いいことなんて一つもなかった!! お前のせいでおばあちゃんは死ぬからな!! 明日お前が小学校から帰ったら、おばあちゃん、そこの柱からぶら下がってっからな!! 見てろよ!! お前のせいでおばあちゃんは死ぬからな!!」
そう私に繰り返す、まだ声を出していた頃の、祖母の、上目に私を睨め上げる顔。
「へ」の字を下へ引っ張ったような口から流れ出てくる怒り。眉間から鼻に集まるしわ。
怒りですらない、どろどろした霧の棘みたいな、「おまえが」。絶叫。おまえがいるから。おばあちゃんを馬鹿にして。おまえなんか。おまえ。おまえのせいで。
おまえのせいで、私はずっと幸せではない。
祖母は、いいえ、「なりたくて、狙って、脳出血から寝たきりになる人」は、いないと思うので、意図してではないでしょう。
これは私が、結果を後から見ての、こじつけでしかありませんが、彼女は、自分の夫(私の祖父)の介護を、断固拒否して、死んでいった気がします。