あなたのことが心配なのよ

(2022年夏頃の手紙)

 私は、「僕が君を導いてあげるよおじさん」という題の文を書きました。

 その文を読んでくれた自助グループの仲間から、
 「今度、『あなたのことが心配なのよおばさん』について、書いてみて。」  
 と、リクエストをもらいました。

 ですので、この文の題は、私が思いついたのではなくて、仲間からの借りものです。ありがとうね。

 でも、うちはお母さん、いないからなあ。
 というのが、私が最初に思ったことでした。

 その次に、でも私は、「私があなたのお母さんになってあげるわおばさん」には、たくさん会ってきたなあ。と、思いました。

 仲間の教えてくれた「あなたのことが心配なのよおばさん」と、私が会ってきた「私があなたのお母さんになってあげるわおばさん」は、近いような気がします。 
 そうであれば、私にも少し、書けることがあるのかな。

 また、私は、こうやって、人を勝手に分類して、名前をつけるのは、意地悪かな。
 という、「僕が君を導いてあげるよおじさん」の作文を書いた時と、同じ不安があります。

 意地悪がしたいのではなく、自分の経験の中で何が起きていたのか、書いて考えてみたかったです。
 もし、ご覧くださいました方を傷つけてしまいましたら、申し訳ございません。あなた様のことではございません。

 私が「僕が君を導いてあげるよおじさん」を書いた時は、おじさん、または、お兄さん(に見えるような形のような気がする人たち)のことだけで、文字数がいっぱいになりました。

 ですが、にこやかに私へ近づいてきてくれ、または、にこやかに私を受け入れてくれ、殴らず、怒鳴らず、やんわりとした形で、私を、「助けが必要な人」にすることで、気持ちよくなろう、あるいは、自分の苦痛を紛らわそうとする人は、当たり前ですが、男の人とされる人ばかりではありません。

 ただ、女の人とされる人の場合は、にこやかの形と、よろこびポイントみたいなツボが、違うように感じることがありました。
 おじさん、おばさん、という、この分け方も大雑把だな。

  「僕が君を導いてあげるよおじさん」の場合は、私を「僕(略)」の思う「よい(正しい)」方へ、頼んでもいないのに、導こうとしてくれました。
 つまり、「僕は、君の意志を尊重するよ。そして、君にとって、何がためになるのかは、僕のほうが、君よりも知っているから、教えてあげるね。」ということです。
 この二つ、両立するんですね。すごいな。

 一方、「私はあなたのことが心配なのよおばさん」の場合は、私が、その人のお眼鏡にかなう形の、かわいそうであると、嬉しそうに見えました。
 心配より、喜びが先にあるというか、喜びの結果の、心配をくれるというか。

 たとえば私に「お母さんがいない」ということが、彼女らにとっては、なんだかおいしい飴玉みたいに、よく「心配」してくれました。

 「えっ、お母さんいないの? そんなに小さい頃から。大変だったねえ。」
 「お母さんがいないのに、そんなにしっかりしていて、えらいねえ。」
  あるいは、「お母さんがいないと、やっぱり、女の子が育つのは難しいのかしらねえ。」これ同一人物が言うんですよね。
 「あなたのことが心配なのよ。」

 このあたりで、仲間が教えてくれた言葉と、私の経験が、少し合流しそうです。

 私は、ここまで書いてみて、「あなたのことが心配なのよおばさん」は、親切だなあ、と、思います。
 私を、かわいそうに思って、心配、してくれているのですよね? 

 「心配」という言葉は、この場合、「お前を助けが必要なものとしてみなす」くらいの意味で言っています。
 「親切」という言葉は、「私があなたにあげたいものをあげる」くらいの意味で言っています。

 私にしても、彼女らの親切につけ込んで、ずるいところもありますが。

 ところで、私は、この言葉をくれた人々に、「私のお家は、お母さんがいないので、大変で、困っています。」と、言ったことが、ありません。
 思ったこともない。

 じゃあ、「私はあなたのことが心配なのよおばさん」にはどこから、私がかわいそうであるという発想が、来たんだろう。
 そして、どうして、彼女らは、その発想を、私本人に漏らしちゃったんだろう。

* 

 苦痛なのかな。と、ふと私は思いました。

 多分、彼女らの頭の中か、体の外に、何か、正しい形があって。
 「かわいそう」という言葉は、「お前は間違っている、正しい形をしていない」ということでもあります。

 彼女らから、「かわいそう」とみなされる間、私はずっと、彼女らにとって、何かが足りない存在であり続ける。彼女らにとって、その必要がある。ということにもなります。

 そうやって私は、「あなたのことが心配なのよおばさん」たちから、親切なお恵みを受けながら、お恵みを受けるほどに、少しずつ首が絞まってゆく。
 私は、「助けが必要な部分もある人」だったのが、「助けがないと生きていられないだめな人」になってゆく。
 こういうの、愛、という言い方もありました。


 彼女らが、私を、かわいそう認定する一瞬前の、下まぶたから頬のあたりが、ふわっと、綻ぶ感じ。
 あれは、何だろう。と、私は、長らく不思議です。

 もしかしたら、私は彼女らから、同じ薄氷の上にいるものとして、みなされていたのだろうか。
 ううん。同じ薄氷の上にいるとみなされたのは、私ではないのかもしれません。

 私を「心配」してくれた、よその立派な、お母さんたち。
 彼女らは、私を見て、私を、かわいそうと断じていたのではなくて、私の母にあたる人を、私越しに、見たのかもしれない。

 明日は自分が落ちるかもしれない冷たい水。
 例えば、母親失格。
 冷たい水に、そう名前がついている。

 自分はあんな「かわいそう」なのとは違う。
 自分は、ちゃんとやっている。何を? お母さんを? それとも女性を。そういうことだろうか。わかりません。

 でも、もし、ほんのわずかでも合っている部分があったとしたら、私が会ってきた「あなたのことが心配なのよおばさん」というか、女性、とされる人々に、そもそも負わされている苦痛が、強すぎるような気がします。
 なんだかみんなつらそうに見える。

 ここまで、上から来るタイプの「あなたのことが心配なのよおばさん」について書きました。
 下から来るタイプもありました。

 下からの場合は、かわいそう合戦というか、最初は私の「かわいそうさ」を「心配」してくれるのですが、だんだん、彼女自身がどんなに毎日大変か、という話に移行してゆきました。

 この場合は、途中から、かわいそうの主語が変わり、「私の大変さに比べたら、おまえなんか全然大変じゃない」という感じになってきます。

 でも、「あなたのことが心配なのよおばさん」は、そんなにはっきり上から下からと、分かれているわけでもなくて、混合型が多かったかな、と思います。
 彼女らが、私をかわいそうにしたり、彼女ら自身が、かわいそうになったり。
 どちらにしても、基盤には、彼女らの苦痛があるのかな、と思いました。

 上から「ああよかった、私はあなたよりマシだから、あなたのことが心配なのよ。」にせよ、下から「あなたの苦労なんか、私に比べたら、苦労のうちにも入らない。私はこんなに大変なのに。」にせよ、「私はつらい」では、だめなんだろうか。
 比較しないと、自分がつらいのは、だめ? わかりません。

 思い返すと、「あなたのことが心配なのよおばさん」たちは、笑っているのに、つらそうなんだよな、と思います。
 どうしてだろう。

 私は、あなたたちといる間、通りすがりのゴミバケツみたいでした。
 仮に彼女が「自分はつらい」と言ってくれたとしても、彼女らが、明に暗にそれを言う相手は、私で合っていたんだろうか。

 私じゃない他に、誰かいたのではないか。そう伝えたい相手が。

 うまく言えない。

 おじさんたちの場合は、「僕が上にいるのが当然だから、僕が君を導いてあげるよ」みたいな感じがありましたが、おばさんたちの場合は、「私が上にいるのが当然ではないことばかりから、私はあなたを心配する」みたいな感じが、ありました。

 私の祖母は、私を嫌いでした。
 そのためか、あまり、心配なのよ感もありませんでしたが、下から来るタイプでした。

 「私はあなたのことが心配なのよおばさん」はつまり、「私はこんなに苦労をした。だからお前も苦労をしろ。」ということだろうか。
 私のお世話をすることで自分の苦痛を紛らわすんじゃなくて、初めからそう言ってくれたなら、もっと、わかりやすいのに。言われても悲しいけれど。

 「私はあなたのことが心配なのよおばさん」に、私をかわいそうに思うことが必要なのは、彼女のせいではないかもしれない。
 彼女らが、負わされているもののせいかもしれない。

 でも、かわいそうにされた側には、あなたの声、あなたの感触が残るよ。
 骨に染み込ませるような、「あなたのことが心配なのよ。(だからかわいそうでいてね。)」。って。

 だから私が、「なぜ、あなたは、私を、ああいうふうに扱ったのだろう。」と、考え、想像することと、
 「いや、ふざけんなよ。人を使って自分のみじめから逃げるな。」と思うことは、両立する。していい。

 以上です。ここまでご覧くださいましたら、ありがとうございました。