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「君たちはどう生きるか」感想 aka. 戦争と母親と死と、逆シャア

※ネタバレ満載でございますよ。 観てから読んでくだされば。

話題の「君たちはどう生きるか」を

観てきたわけだ。

映画に限らず、あらゆる作品というものは二度三度と見ることで新たな発見が得られるものだし、最初に見たときに気づいたことなんてその作品から収穫できるもののほんの僅かな一部でしかない、というのは言うまでもない(俺の大好きな「トップガン・マーヴェリック」あのペラッペラな作品でさえ、三度観たことでようやくわかったことも多かった)。
この映画も、まあ公開中は二回目を観に行くか分からないけれども、日本に住んでいて「アニメも映画も好きですよ~」みたいな顔をして生きている身としては、もう一生観ないということはちょっと考えられないし、何年かおきに観る度毎に新たな発見があろうことは容易に想像がつく。

でも、初回観てどう思ったのかということは、つらつらと書いておかねばいけないような気になる。そういう気にさせる映画だった。

以下三つ、ABCに分けて書く。

A.個人的なツッコミどころ(aka. 全体に繋がらない、好きなところ集)


1.眞人くんがおそらく昭和十二年かその少し前の生まれであること。

俺の祖父が二人とも昭和十一年生まれ(眞人の一個年上~ちょっと年下)で、二人とも俺にとって大事な人というかデカい影響を与えた人なので、どうしても、特に現実世界を描いた序盤は眞人君を祖父に重ね合わせてしまった。後述の通り本作は物凄く監督との距離が近い作品で、眞人もパヤオその人みたいに見えてしまいもするのだけど、そんなこと知るか、というくらいには。
パヤオは昭和十六年(少なくとも眞人の四個年下)で、俺ら世代からしたら俺の両祖父も眞人君もパヤオも全部等しくジジイなのだが、この差はかなり大きい。戦時中の世界というものをせいぜいおぼろげに、ほとんど夢ともつかない断片的なエピソード記憶としてしか覚えていない世代と、まだまだ子供ながらも既に物心ついてしっかり体験していた世代の差なのだ。大袈裟に言えば、最後の戦中世代と最初の戦後世代といってもよい。両者を隔てる大きな壁にかんしては、いかにジジイとはいえパヤオはどちらかというと俺ら世代と同じ側にいるのであり、眞人と俺の両祖父は向こう側にいるのだ。パヤオが想像力をもって描くことしかできない(無論その想像力が物凄いんだけど)世界に住んでいた人なのだ。

その一方で、祖父は二人とももちろんめちゃ大変だったとはいえ、両親ともにつつがなく戦争を生き延びたし(父方の曾祖父はスマトラ島から復員)、その時代の同世代の平均よりは結構幸福な少年時代を生きたと思うので、「どう生きるか」という主体的な選択を迫られたのは戦後もっと大人になってからであろうから、そういう意味では、境界線は眞人と祖父&パヤオの間に引かれるのかもしれない。

身内トークはほどほどにしよ。そもそも祖父はあんなエグい金持ちの子じゃなかったし。

ところで、そもそもこの映画の核心は、あの虚構世界の維持の拒否と現実を生きるという選択、ないし母親との関係修復&構築にこそあるのであって、あの時代設定の理由は単に「厳しい時代」として宮﨑が一番描きやすかった世界が太平洋戦争下の日本であったからにすぎない、という見方もあると思う。実際にネットのレビューや論評を見る限り、戦時下の日本が舞台であることをそこまで重視せず、やはりなんといってもこれはアニメーションという虚構とどう向き合うかという態度表明の映画であるという見方、いわば「後半こそ大事だぜ説」が大勢を占めているようだ。
しかし、一方で、(後述するが)そういったメタファー的な部分というか、パヤオ自身の自己言及的作品であるという側面を重視すればするほど、あの時代であることには大きな意味があるはずだろうとも思う。自らの生きた時代を”戦後”として、つまりあの戦争から選択の余地なしに連続した帰結として捉え続けてきた人が、自分が今終着点として自ら認める(さすがに今度こそ遺作……だよな!?💦😨)作品を作ったときに、その戦争をことの起こりとして設定しないことの方が不自然だ。

これは、「君たちは~」は連環構造をもっているということでもある。虚構世界の構築者 = 大叔父(ジジイ) = パヤオ本人(ジジイ)は作品の終盤で眞人に世界構築作業の継承を拒絶され、虚構世界は崩壊し眞人は現実に帰還する。だけれども、その眞人本人が他ならぬパヤオ本人、しかも若き日の彼の投影でもある。ということは、眞人は大きくなったらまた虚構世界を作ってしまう=大叔父(ジジイ)になるのだ! 
まあそりゃそうだ。「アニメなんかもうええわ」と言って引退詐欺を続けてきたのが当のパヤオ本人なのだから、無限ループから抜けられる筈などないに決まっている。ただ、彼はおそらく「もうこれが最後です。引退します」と言う度に、その時その時は本気で言っているのだ。だからこの映画のラストで塔が崩れるときは、本当に崩れているのだ。それでいいのだ。

2.「アンタなんか大嫌い!」

と、ナツコさんは言うのだ。というか、眞人は言われるのだ。命がけで探し続け、やっとの思いで見つけ出したナツコさんに。

これは結構いいなあ、と思ったシーン。だってそりゃそう言っちゃうに決まってる。最初、家を案内している時に、眞人はぶすっとして一言もしゃべらないんだもん。(このクソガキ、もうちっと愛想よくできねえのかよ!?)て絶対思ってるだろな~って思ってたら、やっぱりムカついてました笑。
そりゃ、眞人もただのガキなので、
(親父の新しい女だ……。新しいお母さんなんて呼べるかよ! ケッ 親父も親父だぜ)
(画面も指輪を強調しすぎだろ!)
(でもめちゃめちゃお母さんに似てるし美人なんだよなこの人……)
(いけねえいけねえ、何考えてるんだ俺は💦)
とかいう思念で頭はいっぱいなのだ。一言も口を利かないのは分かる。でもナツコさんとしてはやっぱりムカつくよね。それをさ、お産間近で一番大変な時にガキが言うこときかなかったら、「大嫌い」て言っちゃうわ。

しかも、なんとこのナツコさん、眞人のお母さんと姉妹らしいのだ。死んだ嫁の妹と再婚するなんて、匈奴か突厥かモンゴル帝国の人ですかあなたと言いたくなる親父の男性ホルモンに溢れる鬼畜ムーブ。しかも、親父は工場をやってて(特需でウハウハ)自分でもかなりの財産を持っているんだけど、どうやら眞人の母方、つまり姉妹の実家の方が代々の名家らしく、いわゆる成金の逆玉っぽいんだよね。親父のことはさておき、旧家の令嬢姉妹で、大人になるまでに姉妹の間に色々あったろうことは容易に想像がつく。さらに、一度は姉を選んだ男と今は夫婦になり、かつて姉が産んだ子供を我が子として育てる……ぶるぶるぶるぶる。怖すぎるだろ何だこの話!!😨 ジブリで過去一のドロドロ設定じゃねえか!! おい、パヤオ! 死に際に爆弾投下してんじゃねえ!

だけども、ナツコさんめちゃくちゃ偉いのだ。最初から最後まで、眞人の良き母として振る舞うことを自らに課しているし、「大嫌い」発言の後もすぐ我に返って眞人を庇っている。これを踏まえれば「大嫌い」発言が、隠された本心が露になった、とか見るのは馬鹿々々しくなる。心の中にしまい込んで自分でも忘れていた僅かな心の襞の一枚が無意識に飛び出た、というだけの話だ。「大嫌い」も「大好き」も「お母さんですよ」も嘘じゃないのだ。

現に、冒頭で眞人がアオサギに呼ばれ、ウシガエル🐸に全身もみくちゃにされるキモイシーンで、ナツコさんは何故か完全武装で助けに入り、「蟇目」という鏑矢を射てアオサギや🐸といった妖を追い払う。蟇目というのは鏃に穴が開いていて、飛翔する時にその穴に空気が入って音を立て、魔を祓うというホーリーアイテムだ。あれは多分、「我が子を思う母」という役割を遂行する姿勢を象徴的に描写するシーンだと思う(唐突過ぎてわけわかんないけど)。

でも逆説的に、そういう風にナツコさんが色んな心を全部曝け出したことによって、はじめて眞人は彼女を「母さん」と呼ぶことができたのだ。最終的に「ナツコ母さん」という、ちょっとたどたどしい呼び方に収まるのだけれども。

こういう機微を描いたシーンは、これまでのパヤオの映画にあんまりなかったんじゃないかと思う。ベタだけど本作で一番好きなシーンである。

……ちょっと待ってください。このシーン、なんかに似ていますね。そう、「すずめの戸締り」のサービスエリアのシーンそのままですね!
すずめの面倒をずっと見ていた叔母さんだったか、とにかく育ての母親的な人が、ストレスがたまっちゃってフイっと「あんたさえいなければ……!」的なことを言ってしまう。それは本心からの発言というよりは、つい「出てしまった」台詞で、彼女は慌ててそれを訂正に走る。でも、そのシーンを挟んだことですずめは彼女を「母」とすることができ、最終決戦に備えられるわけだ。まるパクリですね。

良いシーンですね。キモくて。

あとやっぱちょっと怖いのは、ナツコさんが病気になったところ(これ自体なんかあるんだろうな)で、見舞いに来た眞人の傷を触って「お姉さんが生きていたら、こんな傷はつかなかったのに……私のせいね」的な言葉をこぼすシーン。全部分かってるんだなこの人、というのがさらりと描かれる。お母さんよりお母さんしてる。

3.「道理で死の匂いでいっぱいなわけだ」

向こうの世界に落ちた眞人に、キリコが名前を尋ねます。「本当の人間」を意味するその名を聞いて、キリコはそう独り言ちるんですな。

……いやいや! 「死の匂いでいっぱい」なのはその世界の方よ! とツッコんでしまった笑
アオサギもペリカンも、死を象徴する鳥であり、冥界と現世を往還できる鳥。水平線に浮かぶ夥しい数の幽霊船。島の上には糸杉(死の象徴)が立ち並び、墓と呼ばれているのは支石墓、ドルメンというやつ(これはお産の間にもあった)。獲れたお魚をもらいにくる半透明のおじさんたち(「千と千尋」の電車の乗客に酷似。標準的解釈では黄泉の国の住人、ないし黄泉に向かう人とされる)は、生きているものには触れない……。いやいや! 全部そうじゃん!

本作品は、少年少女が黄泉の世界へ行き現世に帰還を果たす、という、加藤一二三にとっての棒銀戦術みたいな自家薬籠中の黄金パターンに則っているという点では、きわめて正則的な話ではある。それにしても、ここまで露骨な描写はついぞなかった。ジジイもう最後だと思ってやりたい放題やってやがる、というよりは、「これで伝わらんかったら終わりやで」と、もうなりふり構ってられない感。おもしろいね。

さておき、眞人が「死の匂いでいっぱい」というセリフの意味は? とか、黄泉の世界=虚構世界という図式が示す意味とか、それが成功しているか、とか、考えられることは沢山あろうが、今はちょっとわからん。


B.これはどういう作品なのか


家に帰ってからレビューを何個か読んだ。皆高畑勲の話をしている。登場人物の誰が(or何が)高畑勲のメタファーになっているか、という話しかしていない、といってもいい印象すら受けた。
そりゃまあパヤオとその作品について語る時は高畑からの影響(aka. 長年の鬱屈したコンプレックスとその相克)とを軸にする、というのは、日本のアニメオタクに骨まで染みついてしまった習性というか、それ以外での見方をもはやできないくらいの基本条件といった感がある。
しかし、自分がどんな映画を撮っても、そんな個人的な文脈に絡めて鑑賞されることが当たり前になってるジジイというのは流石に可哀想すぎると思う。ただでさえ、「宮崎作品に出てくる少女は皆宮﨑の性癖の投影で、それは彼の子供時代にこういうことがあって……」式の語りがツイッターやなんかで定期的にバズっているのだ。別に何の法律も犯してないのにこんなに可哀想なジジイがいるだろうか。むろん、そういう説明のすべてに一定の真実があるとは思う。思うが、そういうなんでもかんでも監督の個人的な属性(思考、思想ではなく)に引き付けてしまう見方は鑑賞としてもそれ以上深まっていかないのであんまり好きではない。

ただ、本作に関してはまあそれは仕方ないんじゃないかなと思ってしまう部分がデカすぎる。そういう見方を排除するには、作品と監督の距離があまりにも近すぎるからだ。

けれど、もともと宮崎作品においては作品と監督の距離は遠かったはずだ。宮崎は作品と上手に距離を取る、つまり(少なくとも表面的には)小難しい思想を入れず、解釈の余地のないストーリーを持った万人に分かりやすいエンタメの制作に徹し、その隙間隙間に”分かる人にだけ分かる”式の自分色を挟む、という作り手だった。そんなことは、「宮崎と高畑」形式の解釈をする人が一番よく分かっていることだ。

けれどもまあ、これもまた周知の通り彼は晩年になって「風立ちぬ」というのを作り、さらにさらに周知の通り今までとガラッと変わって「これは!!    俺の!! 話なんだァ!」というジジイの鼻息が漏れてきそうなくらい自分丸出しの話であったがゆえに、皆の認識の方がちょっと狂っちゃったというところがあるんじゃないだろうか。あれを観たことで、あれ、この人めちゃくちゃ自分の話するやん、という了解が逆に広まり、皆知らず知らずのうちに過去作にも必要以上に「宮崎その人の幻影」を追い求めるようになってしまった……ということはあるかもしれない。そして大体「風立ちぬ」の頃にはもう隆盛を極めていたSNSのお陰で、「俺たち私たちが見出した『パヤオその人』」が氾濫し再生産されるようになった……気もする。

でもまあ、それで良かったのだ。誰もが皆「風立ちぬ」が遺作だと思ってたから。次は無いと思ってたから。「お~最後に裸を見せてくれたんすね」というお約束があったからこそ、皆それを過去作に照らし返してパヤオ探しを遊ぶことができた。

それがもう一個作っちゃうなんてねえ。

しかもこっちは近すぎる。もう近すぎてなにがなんだかわからない、という感覚すら受ける。宮崎駿その人、といったって、輪郭や質感が分かるくらいにはカメラが引いて、また適切な角度で撮られているから「あ、そうだね。こういう人なんだね」と分るんであって、毛穴ドアップとか、ケツの穴だけとか、胃の内部の写真を映されても「何これ?」となるだろう。それと同じことだ。「パヤオっぽいもの」はそこかしこに散りばめられているけれども、それが結構無造作に提示されている点であんまり「パヤオ探し」としては面白くない。そういう印象を受けた。逆に言えば「ああ『風立ちぬ』はやっぱり物凄く計算された形で露出していたんだなあ」と分かる。

繰り返すが、明らかに、作品と作り手の距離はより近づいている。言い換えれば、画面に映ることだけが語られているのではなくて、何らかの個人的な事柄のメタファーであると考えなければとても観ることのできない作品になっている。たとえば、あの塔と世界はアニメによる虚構の象徴。あそこで子供を産む、あの世界を維持するということは作品を作る、作り続けるということで、宮崎自身がずっとやってきたこと。眞人は宮崎自身であり(あのあからさまな”戦闘機の風防”!)、眞人にその世界の維持方法を教えるキャラは高畑勲で……etc. そういうことを挙げていけばキリがない。
「風立ちぬ」の二郎の飛行機づくりの仕事(aka. 美しいものを作ることと、それに伴う罪)は宮崎自身のアニメづくりの仕事に重ね合わせることができたけれども、逆説的に言えばそれはまだ両者に一定の距離があるから可能なことだ。「風立ちぬ」ってどんな作品なの? という問いには、宮崎駿という名前を出さないでも回答することができる。ところが「君たち~」にかんしては難しいだろうと思われる。

いや、正確に言えば「君たち~」も宮崎の影を読み込まずに観ることは全然可能だとは思う。だって昔のエヴァみたいに急に実写が始まるわけじゃないんだし。でもそういう観方をするとあまりに面白くないというか、破綻した話にならざるを得ない。ナツコさんが勝手に森へ行っちゃったのはなんでなんだとか、色々出てきちゃうから。

ところで、これがどんな映画で、どういう風に見れば良いのか、ということは、岡田斗司夫が全部語っており、やっぱりさすがだなと思った。賢くて目の良い人だ。俺は斗司夫にお金を払うのは癪だから無料公開版しか見ていないんだけれども、大体無料で満足できる。おススメ。

かいつまむと、

  • 「君たち~」はエンタメというよりアートに近い作品で、視聴者一人一人が好きに解釈できる幅が極端に広い。言い換えれば筋としては破綻している部分が多く、宮崎自身も何を作ったか「わかっていない」。これは、アニメ作品としては稀有なことだ。というのも、多人数の共同制作物であるアニメでは、監督といえどアニメーターやプロデューサー、スポンサーなど様々な人に自分の構想を言語化して説明せねばならないことが普通で、自分の中にあるなんだかよく分からない衝動をそのまま作品にすることは困難だから。まして、これまでエンタメとして通用する作品制作を自らに課してきた宮崎の作としては、これほどに「アート」的な映画は前代未聞だ。

  • また、作画としては冒頭の数シーンは腰を抜かすくらい素晴らしいけれども、本編を通してみるとそれ程抜きんでた画面がなく、むしろこれまでの宮崎作品の焼き直しのような絵が多い(ディズニー作品とディズニーランドのパレードの関係に近い、と)。これはおそらく宮崎自身が殆ど自分で作画をしていないからだ。これも彼のキャリアの中で異例のことである。

  • この二つの変化はどちらも彼自身の立場の変化にその理由を求めることができる。つまり、まあ流石にお爺ちゃんになったから(ずっと前からお爺ちゃんなんだけど)昔のようになんでもかんでも手を入れられるわけではないから人に任さざるを得ない。また彼自身の能力としても、見る者すべてを解釈の余地なく一つの世界に没頭させるような容赦のない絵作りを徹底する体力がもうない。その一方で、今や”あの”宮崎という地位を確固たるものにしたからこそ、あんまり説明のない、よく言えば解釈の幅が広くて、悪く言えば精度に欠ける作品を作ることが許されているわけだ。

  • この変化を遂げたいわば「シン・宮」の、アート色の強い作品作りは、じつは制作コストがまことに低いので、効率的に作品を作れる。これから二年スパンくらいでバンバン作品を量産していくんじゃないか……


まあ最後の「シン・宮﨑のアート映画量産説」にかんしては、半分以上は斗司夫の願望混じりのフカシであろうし、何よりこの映画はやっぱり「流石にこれが最後やろ」と思って、ジジイ自身もこれが最後の最後と覚悟して作った映画であると思って観ないとどうしようもないところがあると思う。

より大きな文脈に繋げられる?

唐突ですが、このお話は。

「逆シャア」にも似ていますよね。というのは、あれだって「アクシズ落し」という劇中の企てを、富野由悠季のアニメ業界に対する批判というか鬱屈したなんやかやの発散というか、凝り固まって積もり積もったアレコレを全部打っちゃってバーン! してやりたい! というそういう衝動の象徴として読み解かれてきたし、(今作ほどではないにせよ)そう読まねば話の収拾がつかんところがあると思う。彼もまた、初代ガンダムでは初期宮﨑と同じくらい慎重に距離を取りながらエンタメと自己表現の均衡を(常にエンタメ側にやや傾いた形で)維持していた作家だった。
それがやはり、「逆シャア」では一気に作品との距離が縮まって、アクシズを落とすことになった。まあアクシズは落ちなかったけれども、もうある意味ではほぼ落ちてしまうしかなかったと言って良い終わり方ではあるし、あのサイコフレームの謎発光によって希望のある終わり方にしとかないとな、というある種の冷めた姿勢すら覚えてしまう。
もちろん、あれは「まあアニメだしハッピーエンドにしとくか」というくらいの軽い気持ちなんではなくて、やはり作品を作る以上は肯定的な終わらせ方にする必要がある、そうでなければ作品なんて作る意味(動機)がない、という明白な強制力と、でもやっぱり人間を誠実に描けば描くほど避けがたくなる、こいつら殺すしかねえよなあという当たり前の話とのせめぎあいがギリギリでもたらした「これしかない」という結末ではあったろう。ただ、そこにはどうしようもない「これしかなさ」が漂うのだ。

本作「君たちはどう生きるか」もそうだと思う。もう、塔は崩れるしかなかったのだ。「現実を生きろ」という他ないのだ。だってそういう結末にしなきゃ、映画を作る意味なんか無いんだもん。それは商業上の要請なんかを超えたきわめて明白な超越論的条件とすら言ってよい。それはラピュタが崩れるのと、だいだらぼっちが死ぬのと、千尋が帰ってくるのと同じくらい当たり前に起こることなのだ。パヤオはそれを外れてまで作品を作れる人ではない。

でも、だからこそそれはある種の予定調和であって、「これしかなさ」がある。ちょっと寂しい。アクシズが押し返されるのに似ている。

でも良いのだ。最初に触れたように、どうせ虚構運営の営みは無限に繰り返されるし、ハサウェイがまた世直し(&挫折)してくれたしね。

というわけで、「君イキ」= 宮﨑版「逆シャア」説、どうでしょうか。



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