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「もう少し文章を書いてみよう」と思った僕にとっての4つの必要性

タイトルの通り、今年はもう少し文章を書いてみようと思っています。それは、今まで書いてきたようなエッセイのようなものではなくて(もちろん眼鏡屋のコラムもnoteの「50音」も続けますが)、仕事や、もっと大袈裟に言えば生きる上での思考の整理のために書くことをしないといけないな、と思ったからです。

もちろん書き始めようと思うにはそれなりの理由があります。いや、理由というよりも「必要に駆られて」という表現の方が近い。それはおおまかに言って自身の最近の4つの傾向からです。

・頭が「類似案件処理」をし始めるようになってきた
・話の通じる人を拠り所にしてしまっていた
・内省する時間をとりたいと思うようになった
・言葉を届けることに貪欲になってきた

それぞれについてもう少し掘り下げてみます。

頭が「類似案件処理」をし始めるようになってきた

僕は毎朝出社前に、会社近くのカフェで小一時間ほど本を読んだり、ニュースを見たり、Twitterを見て情報を追いかけています。それがいわば僕の仕事のウォーミングアップであり、それをしないとうまく身体が仕事モードに入らないからで、もうかれこれ5年以上続けているルーティンになります。

でも最近は、言葉や情報が「流れて」しまっていると思うようになった。情報は入ってきているのに身になっていない、そう感じるようになってきました。

思い当たる理由はひとつで、頭が「類似案件」処理をするようになってきたからです。つまり流れてくる情報を自身の経験に当てはめて「つまり、これはああいうことでしょ」という風に、過去の自分の経験に当てはめてわかった気になってしまうことが増えてきたんです。

これのマイナス点は、物事を斜めから眺めてしまう癖がついてしまうこととと、思考が単純化することで(いわゆる「老害」と呼ばれるものです)。そんな雰囲気を自身の態度に感じ始めてくるようになりました。

類似案件処理をする前に、しっかりと今の自分として物事に対峙し自分なりの解釈をすること。それが必要だと思ったんです。

話の通じる人を拠り所にしてしまっていた

やさしく書いたからといって、わかりやすいとはかぎらん。書いている本人がその意味を正しく理解していないと、わかりやすい文章にはならんのだ。一知半解の人間に、わかりやすい文章は書けん。一知半解、二歩後退というんだ。 
(唐沢平吉著『花森安治の編集室』)

新年早々、ガツンとくる言葉でした。『暮しの手帖』初代編集長花森安治さんが当時編集部員に投げかけた言葉のようです。

ガツンとくるにはもちろん理由があります。

僕は昨年転職をしました。理由はいくつかありますが、ひとつには、やってきたことの世界を拡げたいという(なかばありきたりな)狙いがありました。

まったく体質の違う組織と、文脈のまったく分からない人たちとの仕事は、面白く刺激的である反面、結構な頻度で「話が通じない」ということが発生しました。

そういうとき、話のわかる人やコミュニティに逃げてしまうことがありました。「なんであの人たちはわかってくれないんだろうね」と。

せっかく言葉を拡げるために外の世界に足を踏み出したのに、もともとの狙いと完全に相反することをやってしまったんですね。とは言え、どうやったら分かってもらえるのか、悶々としている中にこの花森安治の言葉に出会いました。

そして突きつけられました。
話が通じないのは僕自身が理解しきれていないからだと。

知識や経験は、人に話し腹の底から理解されて、その人の知恵になってはじめて役に立つというもの。そういうことが出来る人を知性のある人と言うのだと思うんです。

僕はまだまだ足りない。そうであれば解決策は書くしかない。文章にして書くということは物事をていねいに整理することでもあるから。そうすれば説明できる。そう思ったんです。

Twitterでも発信はできます。しかし文字制限がある分、結構端折っても伝えられてしまうんですね。だからこうして文章として書くということが必要だと思ったんです。

内省する時間をとりたいと思うようになった

朝からカフェでニュースや本を読み、会社に行き、そのまま夜遅くに帰宅するとなると基本的に1日のほとんどはインプットの時間ということになります。帰ってからも、寝るまでただ漫然とTwitterを開いているときもある。

タイムライン上には、色とりどりのわかりやすい正解が並ぶからどうしても手が伸びてしまうのだけれど、そういった過度な栄養は自分の消化機能を弱めるんです。要は想像力が弱まるということなのだけれど。

何よりそんな言葉をなぞっても意味がない。彼ら彼女らが(僕らが正解と思うほどの)言葉を発信するまでには、莫大な思考と行動がセットになってできることなのだから。だから本質的には(幾分アクロバティックな)莫大な思考と行動をなぞらなければ意味がない。

僕らがしなくてはいけないのは、問いと正解を自分自身で立てること。そして思考は変わり続けることに怯えないこと。時には(いや結構な頻度で)矛盾する考えに行きあたることもある。でもそういうことを自分でわかってきて消化機能が強くなって、はじめて言葉に血が通うようになってくると思うんです。

そのためには潜るしかない。自分の想像力とインプットを総動員して強制的に内省する時間を作るしかない。その時間を僕自身がまず確保するために、内省をそのまま言葉にするということをルーティンにする必要があると思ったんです。

言葉を届けることに貪欲になってきた

最後はとても個人的なことです。

ここ1年くらいで、僕の書いているエッセイなどを見てくれている人が増えてきて、それなりに反応をいただくようになりました。

最近では、書くお仕事をいただく機会も増えてきた。
僕自身ライターではないので、恐縮の極みなのだけれど、こうして自分の言葉が遠い人に届くというのはとても不思議で嬉しくて。

つまりは上のツイートの通りなのだけれど、もう少し正直に言えば、言葉が届き「ありがとう」と言われることが僕にとって結構大きな力になるんだな、ということに気付いたんです。単純に嬉しいんです。こちらが「ありがとう」なんです。

そうであれば、もう少し届けてみたい。この貪欲な気持ちに少し従ってみようか、ということになりました。

「#平日の備忘録」を始めます

そんなわけで、「#平日の備忘録」と称して日々思ったことをnoteに書いていこうと思います。

ふだんインプットしている情報を、自分なりに解釈しなるべく言語化していくことにします。文字数で言えば1,000文字にも満たない文章になると思います。ともすれば答えはないし、矛盾すらすると思います(いきなり逃げ腰だな)。

それともうひとつ狙いもあります。

これを読んでくれた方が普段思い悩んでいることや、違和感を感じていること、そんなこともひとつのインプットにして僕なりの解釈を加えたり、そこからまた違う人からも声をもらったりして...「#平日の備忘録」がそんな対話をしていくような場にもなればいいな、なんてことも思っています。

それでは、また来週。

ありがとうございます。 サポートって言葉、良いですね。応援でもあって救済でもある。いただいたサポートは、誰かを引き立てたたり護ったりすることにつながるモノ・コトに費やしていきます。そしてまたnoteでそのことについて書いていければと。