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坂本龍一の思い出

他人ではあるけれど人生の一部が欠けてしまった感じ。偉大過ぎて大先輩かと思ったが私と10歳も違わないんだな。こっちが高校卒業の頃YMOが発足して初めて彼を認識したのはYMOのキーボードの人・・だった。あの頃のYMOのカセットは何回聞いた事だろう。BEST版を作ったり、東風の後半をアレンジごとに繋いだりしてた。

高校を卒業して当時としては破格だった(今でもだが)185000円したYAMAHAのCS30というシンセサイザーを買ったのもYMOの影響を受けた影響が大きい。 得意分野 微調整、つまみフェチな私

バンドを組んで東風もやったし、多重録音でビハインド ザ マスクも作った。今思えば超単純な8音連続のアナログ シーケンサーも付いていたし、ポルタメントのON OFFスイッチも穴開けて半田付けして作ったりもしていた。

それではキーボードは上手いかと聞かれれば、上手くないと答えるしかない。このシンセサイザーはモノフォニックと言って短音しか出なくて和音が出ないのだ。さらに、真剣にピアノもやってないし音は出せますよレベル。

YMOをBGMにして運転をしていると平均速度が上がって捕まるリスクが高くなった。ヒヤッとした直後に キャスタリア が流れると、ぞーーーとした体験もあり。

その頃のYMOはアメリカへ遠征ツアーをやっていて、NYのボトムラインでやったのをFM曲で放送してくれた。それを録音したカセットは当時超貴重品だったけれども、昨今ではyoutubeにて映像まで含めて見たり聞いたり出来る、良い時代だ・・・

当時のグリークシアターでのライブ、1979年だって・・

最後の東風のアレンジは新鮮でもある。(間違えた?)

YMOのコンサートは4-5回行った事がある。よって生で3人とも遠くからだけどそれぐらい見たというより一緒にいた体験がある。なにしろ3人ともカッコいいのだ・・・ テクノカットはカッコ良いと表れなかったのでやらなかったし、カッコよくてもやらなかったと思うけど・・・

★これは人生の誇り
PIT INN というライブハウスが、新宿と六本木に昔あった。学生時代はちょっと高尚で敷居が高くて行きにくい場所であったが、行けなくはない。暗くて、健全な学生が行くには少し背伸びが必要なレベル。特に新宿は 朝・昼・夜 と3部作になっていて朝と昼はお客も少なくて数人とかの中で もろJAZZ(・・と言う表現だった)をやっていて、慣れないのを無理して聞いてた思い出もある。六本木の方はFUSIONとかROCK系の分かりやすいJAZZもやっていて華やかで聞きやすい思い出がある。通常ライブに行くには500人とか1万人入るコンサートホールで聞くのが常識の時代に、何十人しか入れない狭いライブハウスというのは異質の存在でカッコよかった。

その中で、渡辺香津美 のMOBO セッションというのがあったので聞きに行った。当時は主要情報源の ぴあ の細かい活字を頼りに情報を探すのだ。MOBOは2枚組のLPレコードも持っているし、後にCDも買ったほど好きなアルバムだ。


ギターの渡辺香津美はYMOのUSAツアーにも一緒に行っていてもう有名人になっていたので、かなりの混雑で立ち見になっていた。KBDは橋本一子で向かって右の後ろの方で演奏をしている。彼女もYMOと一緒にやっていた事がある。他のメンバーは忘れてしまった。正面に PROFET5 (だったと思う)が置いてあるのだけど、橋本一子は奥にあるKBDとピアノを弾いている・・後で曲によって場所を変えるのだなと思っていた。

後半、突然 坂本龍一が出てきて 正面のKBDを弾き出した。こういうのを飛び入りというのだな! ・・・この衝撃は忘れない! それも狭いライブハウスなので数メートル先で天下の坂本龍一が狂ったように普段とは違う曲を弾いている。渡辺香津美のギターとシンクロして大変盛り上がった思い出がある。あんなに近くで見れたのは人生の誇りね。

その頃、戦メリで下手な英語を(今思えばわざとか・・・)話していた。その後ラストエンペラーの音楽でアカデミー賞を取った。来年のグラミー賞でもアカデミー賞でも追悼の部分で登場してくれるのだろう・・・日本人としては、彼が認められるというのは嬉しい事だ。

<音楽は永遠に存在し続ける>

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