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【読書メモ】(4-3)『奔馬』論の感想:『三島由紀夫論』(平野啓一郎著)

今回は『豊饒の海』の第二巻『奔馬』についてです。物語の舞台は1932年で、中学校の歴史的に言えば五・一五事件があった年です。松枝清顕が転生した飯沼勲の政治思想には1ミリも共感できないのですが、それにも関わらずスラスラと興味深く読めてしまう三島の技量はすごいといつも感じます。平野啓一郎さんのステキな解説に基づいて、第四章「『豊饒の海』論」の26-38節を中心にまとめてみます。

自刃と自殺の違い

平野さんの解説を読んでいて、「なるほどねー!」といたく感じ入ったのは、自刃と自殺の相違についての考察です。フツーに生きていると、自刃は自殺に含まれるという関係性に捉えてしまうのですが、勲の発言内容を解釈していくと、両者には相違があるとして以下のように解説してくれています。

 自刃とは、当為を自ら能動的に受け容れることである。つまり、死にたい、ではなく、死なねばならない、死ぬべきである、という規範に、あらゆる他の規範同様、完全に同化して躊躇なく従うことである。武士道精神が、どれほど独立自尊を強調し、外的な刑罰や虜囚の辱めに命を委ねることを否定しようと、自刃は死の自己決定からはほど遠く、それはそれで内面化された命令である。従って、死にたいという勲の私的な欲望だけでは、単なる自殺願望となってしまうが故に、彼には何らかの「大義」が必要なのである。

444頁

自刃という行為は、勲について当て嵌めるだけではなく、三島の最期をも想起させざるをえません。三島の死を肯定するつもりはありませんが、何を考えて自刃したのかという背景に想いを巡らせようとする時に、「死ななければならない」と常に考えて自刃へ至った勲という登場人物に焦点を当てることは自然なのかもしれません。

世界の認識のあり方

三島作品での登場人物たちは、言語と行動が一致しないことに否定的に捉え、厭世的になるか、その同一化を試みようとするように思えます。『奔馬』での勲は、同一化を試みようとするわけですが、その背景にある世界に対する認識のあり方についての以下の説明が納得的でした。

 …言語的に構成された世界像を「幻」と認識した勲は、世界そのものの「幻でない」手応えを、行動によって掴もうとし、しかも「同苦」でさえ必要とした観念的飛躍を排し、敵に体当たりし、存在を破壊する衝撃の中に、自己と他者の生の確実さを一体的に体感しているのである。

473頁

私自身は社会構成主義的に社会や環境と相互作用する自分という捉え方をします。乱暴な理解かもしれませんが、三島の世界の捉え方は社会構成主義とは程遠いものなのでしょう。やや繰り返しになりますが、認識のありようも異なり、政治思想も異なるのに、作品には惹かれるというのは面白いなと改めて感じました。


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