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【読書メモ】主体的キャリアデザインと学習(1/9):荒木淳子著『企業で働く個人の主体的なキャリア形成を支える学習環境』(序章)

本書は、著者の博士課程論文を基にしているため、学術論文に慣れていない方にとっては読むのに少々骨が折れるものかもしれません。しかしながら、所属する組織や、複数の組織間をまたがる越境を通じて、どのように学習経験を積み重ね、キャリアをデザインしていくか、という現代的な問いに対する一つの仮説的な回答を提示してくれる良書です。

まとまった文章の書き出しというものは難しいもので、私にとって素晴らしい学術書は、書き出しから魅了されるもののように感じます。その点、本書は序章から奮っていて、著者の想いに共感しながら読み進めました。気づきを残したい内容なので、序章からまとめてみます。

まず、本書のテーマについてまとめられている部分を見ていきます。

本書では、企業で働く個人の主体的なキャリア形成を支える学習環境として実践共同体、職場、越境に着目し、企業で働く個人が実践共同体、職場や実践共同体と職場との越境を通じどのように学び、仕事に関わるアイデンティティを形成しているかについて分析を行う。(16頁)

重要なポイントを凝縮している文章なので、ポイントを三つに分けてまとめてみます。

①主体的なキャリア形成

企業側から論じる場合と、個人側から論じる場合とで、主体的なキャリア形成の意味合いは変わってきます。企業側からは、エンプロイヤビリティ(被雇用者能力)を高めるためのものという文脈で主体的なキャリア形成は論じられています。

他方で個人の側から眺める場合には、主体的なキャリア形成とはキャリア自律と同じであると著者はされています。私にはあまりにも慣れ親しんだ「めまぐるしく変化する環境の中で、自らのキャリア構築と継続的学習に積極的に取り組む、生涯にわたるコミットメント」(5頁)という花田先生らの定義が本書でも援用されています。

こうした企業側と個人側との思惑の違いに基づく定義の差異をレビューした上で、本書では後者、すなわち個人側からの定義であるキャリア自律が主体的なキャリア形成として捉えられています。

②実践共同体や職場における学習

著者は、LaveとWengerの実践共同体に関する論述から、「仕事と学習は不可分であり、仕事を学ぶこととは職場の一員として仕事を覚えアイデンティティを形成する過程」(6頁)として実践共同体における学習を捉えています。

実践共同体は「興味関心を持つメンバーの自発性に基づいて編成される集団」(9頁)であるのに対して、職場は「ビジネス上の達成すべき目的のために編成される集団」(9頁)です。本書では、実践共同体と職場のどちらもが対象となっている点に留意するべきでしょう。

その上で実践共同体や職場において生じる学習というプロセスについて「経験による認知変化・行動変化・情動変化」(10頁)として定義されています。つまり、仕事における認識や行動の変化も、キャリア形成に向けた認識や行動の変化も学習として捉えているわけです。

実践共同体と職場との双方が本書の対象となっているのは、「アイデンティティが単一の共同体における成員性ではなく、過去から未来へと続く時間軸の中での多様な役割を統合したもの」(10頁)という多重成員性を重視しているからであると言えます。つまり、私たちは、一つの企業・一つの職場だけでアイデンティティが形成されて学習するのではなく、複数の実践共同体でアイデンティティが生成されるというわけです。

③越境

こうした複数の実践共同体を対象とすると、越境という概念への着目が必要になります。越境の定義はEngestromから援用していて、「個人が同時に複数の実践共同体に所属することを前提とし、それぞれの共同体間を移動すること」(11頁)としています。

本書における越境では、多重混成型という「複数の文脈が時間や空間を隔てず重なり合う」(13頁)というタイプのものが対象となっています。つまり、ある実践共同体での学習内容が他の実践共同体に持ち込むことによって相互作用を促すということが越境である、としています。

やや長いあとがき(研究上の覚書)

昨今、キャリアを主体的に形成するという考え方に対して、強い個人を前提にしたものであるという批判が提示されることがあり、序章でもいくつかレビューされています。ロールモデルが周りにいない中で、また職務に求められる確固たる知識・スキルを提示できない中で、自律も主体を強調すると働く社員の不安や戸惑いを招くのではという主張です。たしかに、VUCAな環境において、組織側による教育やフォローを行わない免罪符として主体的キャリアデザインやキャリア自律が謳われている状況には私も疑問を持ちます。しかしながら、キャリアという文脈において自律や主体性という要素まで否定するのは行き過ぎではないでしょうか。

最近、ミードをはじめとしたプラグマティズムや相互作用論といった社会学の考え方によれば、主体とは、個人の内部にアプリオリにあるものでも閉じたものでもありません他者や社会との相互作用のプロセスを経て生成されるものであり、開かれたものです。他者とのコミュニケーションのためにはお互いに理解可能な形態を取る必要があり、お互いに影響を与え合うために身振り手振りや言語を用いるわけです。仮に私に斬新なアイディアが見つかっても、「jgadjgaodiaoka」などと言い出しても、誰にも通じないわけですから。

完璧なロールモデルがいるとか、あるべき知識・スキルのセットがある、という考え方は、「正解」が世界に客観的に存在するという発想で、現実的ではないのではないでしょうか。現実の社会では、この人のこの部分がすごいから真似したいというロール「パーツ」モデル(=ある先輩の受け売りです)があり、特定の状況で望ましい結果を出すために有効な言動のセットを生成的に生み出す(=これも同じ先輩の受け売りです)ものだと私は考えます。

このような他者との相互作用の起点として、自身が社会や組織に積極的に参画しようという一歩を踏み出すことが自律や主体であると私には思えるのです。ささやかな認識の捉え直し、ちょっとした仕事のしかたの工夫の試みを肯定的に捉えるために、主体や自律は、現代においてこそ、決して強い存在ではないマジョリティとしての働く個人を支える考え方なのではないでしょうか。


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