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【読書メモ】(1)『仮面の告白』論の感想:『三島由紀夫論』(平野啓一郎著)

初めて読んだ三島の作品は『仮面の告白』でした。そこから三島にハマりまして…と言えればカッコいいのですが、全く内容が入ってこず、しばらく三島文学から遠ざかることとなりました。再読して、彼の文体の流麗さに魅了されましたが、引き続き内容はわかりませんでした。ところが、本書での平野啓一郎さんの解説はお見事としか言いようがなく、私の理解を妨げていたところを端的に述べていらっしゃいました。私なりにポイントと考えた点を三点に集約してまとめてみます。

(1)人に成長はなく本質のみがある

まず第一に、『仮面の告白』の主人公は「成長はなく、あるのはただ本質のみである」(26頁)という思考の持ち主であると平野さんは指摘しています。

主人公の実存を、生得の本質から説明することがこの小説の目的であり、結論を先回りするならば、彼が、時間経過によっては、決して変化し得なかったことこそが最大の強調点である。従って、結果は原因であり、原因が結果なのである。

25-26頁

この点を私は全くわかっていませんでした。というのも、私自身が発達的な学習観を持っているので、人は、特性の影響を受けながらも後天的に変化するものであると考えてしまうからです。だからこそ、主人公がやたらと自分自身の本質にこだわっているように感じ、なぜ変わろうとしないのだろうと不思議に思って、共感できなかったのだと理解しました。

(2)同性愛と異性愛

正直に言えば、平野さんの解説を読むまで、私は『仮面の告白』は同性愛をテーマとした作品だと理解していました。同性愛というものは頭では理解しているものの、自分自身の身近で経験することがなかったことも、この作品を理解できない理由だと思っていました。

ただ、平野さんの解説によれば、本作品はさらに複雑な構造を持っていることがわかります。

 重要なのは、彼の肉体の領域である同性愛は不変であり、”本物”であるが、精神の領域である異性愛もまた”本物”であって、この点に於いて、三島の肉体と精神という二元論的な観念は、両者が序列化されずに均衡し、対立しているということである。(中略)
 この観点が抜け、恋愛指向と性的指向とは、当然に合致するものだという前提に立って、この小説の主人公を同性愛者として読もうとすると、後半の園子との恋愛がチグハグになり、また、異性愛者として読もうとすると、前半の同性愛者という設定は、取ってつけたような作為的なものか、少年期特有のいずれ”卒業”するようなことを殊更に大仰に描いているように見える。

84-85頁

まず、主人公は同性愛者でもあり異性愛者でもあるという存在として描かれていたようです。この点を理解できず、主人公=同性愛者と捉えていたために、上に引用した箇所の後段にあるように、主人公の園子への感情が全く理解できませんでした。

次に、同性愛と異性愛とはどのように共存できるのかという点です。ここでは、恋愛指向と性的指向とが必ずしも合致しないという平野さんの指摘が刺さりました。両者は自ずと合致するものだと感覚的に捉えてしまっていた私の浅薄な理解には目から鱗でした。

(3)書くことによる生の承認

(2)でセクシュアリティについての解説を抜書きしましたが、平野さんによれば、本作の主題はセクシュアリティではなく、生きることへの無力感の克服についてだそうです。

 主題は、セクシュアリティそのものというより、生への「無力」、「無能力」の克服だった。そして、三島は本作を以て、戦後という新しい時代を生まれ変わったかのように生きる同じ逆説を共有する読者たちに、失われるべきではなかった才能だと、その生を承認されることとなる。「序論」で引用した「何としてでも、生きなければならぬ」という『仮面の告白』執筆後の心境を思い出されたい。
 これが、戦後作家としての三島の再起点である。

90頁

この辺りは、次の章で扱われる『金閣寺』とも通底するポイントなので、後でまた考察してみたいです。

まとめ

小説を読む効用の一つは、自分とは異なる他者を理解することだと考えています。優れた評者の解説を読むことで、優れたテクストを重層的に理解することができるものだと改めて理解しました。


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