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【読書メモ】(4-4)『暁の寺』論の感想:『三島由紀夫論』(平野啓一郎著)

『春の雪』の松枝清顕から『奔馬』の飯沼勲を経て、『暁の寺』でその転生者として登場するのがタイの皇族の女性であるジン・ジャンです。第一巻・第二巻と趣が異なるのは、ジン・ジャンを中心に描かれるのではなく、全体を通した主人公と言える本多繁邦による観察によって物語が展開される点です。

観察という価値中立的な言葉よりも、時に窃視という陰惨な言葉の方が本多の行為を形容する上では適切なため、物語は陰惨な印象を強めてきます。個人的には読み進めると暗い気持ちになって難渋するのですが、平野啓一郎さんの解説が素晴らしいので、第四章「『豊饒の海』論」の39-48節を中心に感想を書いてみます。

要約的まとめがスゴイ

書籍に対する好みは人それぞれなのだと思います。小説の場合には、好みがさらにモロに出るように感じます。『暁の寺』は、観察者あるいは認識者としての存在である本多の行為がエスカレートして、「それ、もはや犯罪でしょ…」というような見るに堪えないものになります。なので、気持ち悪くて読み進めるのが苦しくなるのですが、以下のような平野さんによる一段落での要約は大変ありがたいものです。

 …第一部のベナレス体験に於ける、ドロドロした「現実所与」と空襲体験を通じて透かし見られる「物自体」の認識不可能な実相、その先の「世界無」(死的な虚無/虚無的な死)は、第二部で、ジン・ジャンという存在に収斂してゆくこととなり、だからこそ「認識者」としての本多は、ここまで距離を取り、運命論的に認識しようとしつつ、不用意に接近し、魅了されてしまうという経緯を辿るのである。

551頁

時間軸と空間軸とで対照的に捉えることによって、認識者/観察者としての本多の変遷を辿ることができそうです。「なんでこんなに気持ち悪いことするのだろう?」と理由もわからずに読み進めるよりは、理由を類推して読めることは精神衛生上だいぶマシです。

第四巻『天人五衰』への伏線!?

小説家、ジャーナリスト、研究者といった文章のエキスパートの方々の文章を読んでいつも思うのは、「なぜここまで作品を丹念に読み込めるのだろうか?」という疑問です。私がスルスルと先を読んでしまうだけなのかもしれませんが。

本書の場合、平野さんは、ジン・ジャンへの対応と聡子(『春の雪』のヒロインで『暁の寺』にも少しだけ登場)への対応が対照的であることに着目して以下のように述べておられます。

 長らく作中で不在であった聡子が、依然として美しいと言及されるのもこの場面で、本多の彼女に「会いたいという気持」は、第四巻の最後の再会のための中継となっている。これは、第一巻では清顕こそが熱烈に抱いていた能動的な欲望だが、認識者としての本多が、ここでそれを、彼自身の欲望として所有し直すことに注目したい。何故ならば、それは、『暁の寺』第二部以降、本多がジン・ジャンに対して抱く窃視の欲望とは、自らの主体の現前という点では、対照的なものだからである。

521頁

聡子の印象は、第一巻は主要人物なのでもちろんありますが、あとは第四巻の最後の最後の印象的なセリフのみでした。しかし、『暁の寺』でも、ジン・ジャンとの対比で興味深い存在感を示していたのですね。『豊饒の海』を改めて読み返したい気持ちが強くなってますが、博士課程を終えたあとのご褒美かな。


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