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成長して変わる捉え方、でもやっぱり




皆さん、こんばんは🌙

高岡です🌼






3日ほど更新できずにいました・・(謝罪

私の住む北海道札幌市の冬が
本気を出してきたようで
寒さやら乾燥やらに
身体がやられてしまっていました・・。



とにかく目の充血が酷く、
普段コンタクトレンズユーザーの私にとって
私生活も仕事もままならない状況。


でもそんな状況でも、

この投稿のことを考えることができたり
自分の時間の使い方を考え直すことができたり
無駄な「休止」ではなかったので
良かったとしましょう。






さて、今日のブログのテーマは
アドラー心理学」について。


2013年12月、アドラー心理学に関連する
「嫌われる勇気」という本が初刊されて
全世界的にベストセラーとなった。

当時、私は21歳の誕生日を迎えたばかり、
大学進学で状況して3年目を迎えていた。



相変わらず、父との関係性は最悪だった。

そんな父から突然、
その「嫌われる勇気」という本が送られてきた。

読んでみなさい。
お前に足りないものが全部書かれている。


と、言葉が添えられていた。



本のタイトルを見た第一印象は

「率先して嫌われたい人なんていないだろうし
そこに勇気を持てとは・・」

「父は私から嫌われていることを
自覚しているだろうし、

どうせそれはまた

お前のために嫌われ役になったんだ

だとか、言い訳するための本なんだろうな」

と、

なんとまあ捻くれた気持ちだったのだ。




そして実際に読んでみた私は、

やはり
これまで父が私へしてきた最低最悪な言動を
肯定するための言い訳、

心理学者がこう言っているのだから
俺は正しいんだ


という「免罪符」のように感じて
私はそれ以降
この本を一度たりとも読むことはおろか、

開くことはなかった。







それから10年経ったようだ。

現在、2023年で私は31歳。

最近は
YouTubeの名著まとめチャンネルを
さらっと聞きながら
家事や軽めの事務作業を取り組むことが多い。

その時ランダムに私の耳に流れてきた、
「アドラー心理学」「嫌われる勇気」
というワード。


少しだけ、ハッとした。


10年前の私は
父に対して強い怒りと憎しみを抱いていた。

それは完全に縁が切れることになった
2年前まで続いていたが、

今の私は「好き」でも「嫌い」でもなく
父に対して「無関心」である。



当時とは変化(成長?)した今の私が
後にも先にも本を読んだ後に
胸糞悪い思いをした経験がなかった
「あの本」を読んだとしたら
どんな感情を抱くのか興味が湧いた。








アドラー心理学については
様々まとめられているので
このブログでは簡潔に。


アドラー心理学は

オーストリアの精神科医
また心理学者であった
アルフレッド・アドラーが

幸福に生きるための考え方」として
唱えた心理学理論で



① 人は変わることができる
② 世界はシンプル
③ 誰しも幸福になれる



という三つの主張を軸としている。


そんなアドラー心理学と
相反する理論を唱えているのが
オーストリアの心理学者
フロイト。


過去が原因で今がある
という
原因論」を主張していたが、


アドラーは
トラウマ・怒り・劣等感などを
過去のせいにして
今のままでいることを選択している
という
目的論」を主張した。





この考え方で言えば
10年前の私は完全にフロイト派で
自分の生まれた環境を恨んだり

今ある言葉を使うなら
「親ガチャ」にしくじった、
強く思い続けたり

過去に囚われて卑屈になっていた部分は
あったのかもしれない。




続けて
アドラー心理学が主張していることは

大切なことは変わる勇気を持つこと

ということ。



10年前の私も

変わりたい

現状のままではいたくない

という思いは間違いなくあったけれど

その当時は
あまりにも力がなかったように思える。

その力というのは
生きていくための「知識」であったり
世渡り術であったり
様々なんだけれど。

一番は「社会的信用の問題


お金は自分で稼ぐことができた。

東京でも学生をしながら
水商売のアルバイトができたから。



だけど社会的信用がなかった。

日本社会において
住む家を借りることや
スマホを契約することにおいて

「保証人」という枠に
だいたいが親になってもらうという
慣例があるじゃない?

私はその自由がなかった。

父の納得いく形でないと
保証人にはなってもらえなかった。

マンションの立地、間取り、家賃
スマホの契約キャリアは
ド⚪︎モじゃないとダメ、等



(※ 当時、iPhoneが日本で普及し始めた頃、
ソフト⚪︎ンクでしか取り扱いがなく
父の許可なく
自分名義で新規契約したことがあった。
(学生証があれば自分名義で契約できた!)

しかし私のスマホの存在を知った父は
家族携帯だったガラケーのスピーカーが
ぶっ壊れるほどの大きな声量で
電話をかけてきて

「勝手なことしやがって、⚪︎ね」

と私を怒鳴ってきたのだ。

利用料金も自分のバイト代で払うし
名義ももちろん自分。

これは未だに怒りのポイントが謎w)



話は戻して、

とにかく父と縁を切ることしか
自分を変える術はないと思っていたので
それが難しい状況であると
当時は判断していた。

実際に今、
父と縁をキッパリ切ることができたのは
たくさんの人に助けられて

上記で言うなれば
「保証人」の部分なり
解決困難に思えた問題を
今は解決することができる「力」を
自分でも身につけることができた、

時間はかかったけど

確実に自分が積み重ねてきた努力が
自分を変えてくれたからこそ

アドラーの提唱する理論に
共感できる自分もいる。








アドラーが主張していることは
他にもまだある。

それは、

すべての悩みは対人関係

ということ。

仕事も交友も、家族や恋人も
すべて人が関わっている。

その悩みを解決する上で大切なのは

その問題は
「自分」の問題なのか
「他人」の問題なのか
ということを理解すること。



自分で解決できない問題に
悩んでいても仕方ないというニュアンス。




私はこの部分に
一番怒りを感じていたのかもしれない。

散々
汚い言葉で私を傷つけてきて

何週間も痣が消えないほど
腫れが治らないほど
殴る蹴るをしてきて

「暴言を吐かれないように」

「暴力を振るわれないように」

父の怒りは父の問題であるから
私の問題ではない、

悩んでも仕方ないと捉えろ、

と父に言われている気がしたから。




小学5年生の冬、

私は地元の警察署に
父の暴力のことで助けを求めた。

「家に帰りたくないから
このまま児童相談所でも
養護施設でもいいから
保護してほしい。」

と泣きながら懇願した。

その警察署に辿り着くまでの経緯は
この公の場で書くには
あまりにも酷い内容なので
省こうと思うけど、

母親でもなく
そのほかの家族でもなく

全く知らない赤の他人が
警察に通報してくれたおかげだった。



それでも私は家に戻された。


今のご時世なら
どうなっていたんだろう・・。

そう考えることは幾多とある。


アドラーの理論に基けば、

当時11歳だった私が取るべき行動は
何が正しかったんだろうか。










そして最後の主張は、

幸福とは、
仲間に貢献できる感覚(共同体感覚)


ということ。



前述の主張の中に
自分の問題と他人の問題は別であり

だいたいが自分の課題ではない

とアドラーは主張していると共に

他人から「褒められたり」
他人を「褒めたり」

つまり
自分の承認欲求を満たしたり
他人と上下関係を築いたりではなく

「感謝され、感謝する」関係性を
構築すること、


共同体感覚”を持つことも
薦められていた。(ムズカシイネ


それこそが人間の幸せである、と。


綺麗事のように聞こえていたけれど
今の私には思うことがある。




この世に生まれて
一番初めに頼れる存在、
弱い自分でも見守ってもらえる存在であろう
親との関係構築が大失敗に終わり、

その反面

今まで出会ってきた人たち
家族ではないけれど
家族とも言えるほど

本当にたくさん助けられてきた。

なぜここまでしてくれるのか
と不思議に思うことがあったけれど
それこそアドラーが提唱する
「共同体感覚」

何か人のためになることをしていないと
自分が認められない状況ではなく、

大袈裟に言えば
そこに存在しているだけで価値がある状況
「いてくれるだけで感謝される」
ということ。

自分が感謝される立場で考えると
かなりむず痒い感覚になるのだが、

自分の大切な人たちを思い出せば
私はその人たちに
「何か」得することでもしてもらわないと
大切に思えないわけじゃない。

彼らが笑顔でいてくれるだけで
何気ない時間を共有できるだけで幸せで
そして彼らの存在に感謝してる、

自然とね。







自分が安心できる居場所や
素敵な人間関係に

今まさに恵まれているから
具体例がサッと思い浮かぶ。

だけど、10年前の私にしたら、
やっぱり難しかったかもしれない。



そして、難しく感じる人は
たくさん存在すると思う。



痛いほど、

その気持ちがわかります。










第一印象は最悪だったけれど

アドラー心理学の存在や
「嫌われる勇気」という名著を
私の記憶に埋め込んでくれた父には
少し感謝しないと。

でもまだまだ私の中で
疑問は残る。

アドラー心理学と
子育てにおける関係性。

「アドラー教育法」なるものが
世間にはあるみたい(サッと調べたら



この世に生まれて
ある程度の人格形成されてからの生き方として
アドラー心理学が
いかに役立つかということは
理解できて納得できたけれど

幼少期、
親が子供に最も向き合うべき時期に
この考え方がどう生きるのかということ

そして
父はアドラー心理学を
暴言暴力の免罪符」として
使っただけではないのか
という私の中で消えない疑問を

別の記事で振り返りたいと思う。






実際にあった私の経験談を織り交ぜて
アドラー心理学のことを
振り返ってみました。

読んでくださった方々、
ありがとうございます!

感想や意見、経験談など
コメント欄やインスタグラムのDMに
いただけたら嬉しいです。





では、また明日⭐️








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