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孤独を味方につける大切さ──『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』が教えてくれたこと

『レディ・バード』のグレタ・ガーウィグ監督が、シアーシャ・ローナンと再びタッグを組み、ルイーザ・メイ・オルコット原作の『若草物語』を映画化すると聞いた時からずっと楽しみにしていた。しかも共演は、『ミッドサマー 』のフローレンス・ピューをはじめ、『レディ・バード』で脚光を浴び『君の名前で僕を呼んで』で大ブレイクを果たしたティモシー・シャラメ、さらにエマ・ワトソンにローラ・ダーン、メリル・ストリープ、クリス・クーパーらが脇を固めるとあっては、面白くならないはずがないと。コロナによる公開延期を経て、ようやく観ることのできた本作は、2020年ぶっちぎり1位確定。否、それどころか人生ベスト級に素晴らしい作品だった。

僕にとって『若草物語』といえば、ハウス名作劇場の『愛の若草物語』が最も印象に残っているし、当時も今も、「推し」は次女ジョセフィン・マーチ(通称ジョオ=ジョー)一択だ。木の上でリンゴをかじりながら本を読み、そそっかしくて“男勝り”で、スカートの端をしょっちゅう暖炉で焦がしてしまう女の子。その後、原作の『若草物語』も『続 若草物語』ももちろん親しんだ。

ただ、19世紀当時に小説家としての自立を目指し、恋愛にも結婚にもとらわれない「自由な生き方」を選択していたはずのジョーが、『続 若草物語』の終わりで歳の離れたフリッツ・ベア教授と結婚し、子供を授かる展開にだけは、どこかモヤモヤしたものを感じていたのも事実だ。実際のところジョーは、原作者であるオルコットの「分身」であったはず。そのオルコットは生涯独身を貫き通したのだから、その意味でも辻褄が合わない。当時の読者が納得する結末にするため、敢えてそうしたのかもしれないが、さすれば尚のこと、この部分を今回グレタ・ガーウィグがどう描くのかも楽しみの一つであった。

映画は意外にも、ジョーがニューヨークで住み込みの家庭教師をしながら小説家の修行をしていた『続 若草物語』のエピソードからスタートする。週刊誌に持ち込んだ原稿が何とか採用され、喜び勇んで街を駆け出すジョーの姿に、グレタ・ガーウィックが主演を務め、彼女のパートナーであるノア・バームバックがメガフォンを取った『フランシス・ハ』(2014年)の、あの有名なショットを思い浮かべた人もきっと多いはずだ。そう、本作『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』は『続 若草物語』を起点としつつ、『若草物語』の舞台をそこから振り返った「回想シーン」として描く手法を取っている。要するに『続 若草物語』と、その7年前のお話である『若草物語』の間を行き来しながらストーリーを進めていくのだ。

この大胆な脚色は、本作に「奥行き」と「広がり」をもたらし、生き生きとした躍動感を与えている。例えば過去と現在、両方に出てくる海辺のシーンが顕著だが、回想シーンでは映像をややセピア色に加工することによって、観る者を強烈なノスタルジーへと誘う一方、現在のシーンは青味のかかった映像にすることで、三女ベス(エリザ・スカンレン)の来たるべき「運命」を示唆している。さらに、「猩紅熱」に罹ったベスが一命を取り留めた7年前の回想シーンと、それが原因ですっかり病弱になった彼女が遂には亡くなってしまう現在のシーンを、「ジョーが2階から階段を降りてくる」という同一のショットで対比させるところなど、見事という他ない。また、4人の姉妹が身につけている衣装や施すメイクなどによって、いつの時代のエピソードなのかすぐ分かるようにしたり、時代の切り替わりを「似たようなショット」で揃え、つぎはぎ感が出ないようにしたりと様々な趣向を凝らしているのだ(もちろん、それぞれの時代を演じ分けた役者たちが凄いことは言うまでもない)。

ジョーがお気に入りの長髪をバッサリとカットする場面、ベスが老ローレンス氏(クリス・クーパー)からピアノをプレゼントされる場面、四女エイミー(フローレンス・ピュー)が凍った池に落っこちる場面など、原作ファンにとって思い入れの強い「名場面」が登場するたびに胸が躍った。そんな中、グレタが原作を大胆に「改変」したのはクライマックスだ。ここではジョーが、『若草物語』を執筆するシーンが描かれる。前述したようにジョーはオルコットにとって「分身」と言える存在なのだが、ここへ来てグレタはジョーとオルコットを完全に重ね合わせている。

完成した『若草物語』の初稿を携え、ジョーはオープニングにも登場した週刊誌の編集長を訪ねる。そこで採用の条件として編集長から出されたのは、「主人公を結婚させるか、死なせるか、どちらかにすること。そうじゃないと読者は納得しない」というものだった。それに対し、ジョーは「結末を変える」という条件を飲む代わりに『若草物語」のコピーライト(著作権)を主張する。これも原作にはない描写だが、オープニングでは編集長に「赤入れ」されっぱなしだったジョーの、ライターとしての成長が窺われる重要なシーンだ。

そして新たに書き加えられた結末が、ジョーがベア教授に求婚する場面、つまり『続若草物語』の第23章「傘の下」であるかのように話が展開していく。そのため、映画の中でジョーが本当にベア先生と結婚したのか、それともこれはジョーが書いた物語の中の話なのかが分からなくなる。観ている側に解釈の幅を持たせたのだろう。ただ僕は、ここはやはりジョーは最終的に結婚を選ばなかった結末だと解釈している。その理由は後述するが、これこそがグレタ版『若草物語』の最も本質的な部分であると思う。

クライマックスの直前には、ジョーが母マーミー(ローラ・ダーン)に自分の感情を吐露する、予告映像の中でも使用された最も重要なシーンがある。

Women, they have minds, and they have souls, as well as just hearts. And they’ve got ambition, and they’ve got talent, as well as beauty, and I’m so sick of people saying that love is just all a woman is fit for. I’m so sick of it! But... I am so lonely.
女には、心も魂もあるし、野心があって、才能があって美しさもある。なのに、「女は愛が全て」なんて言われるのは本当にうんざりする。でも……どうしようもなく孤独なの。


姉妹の中で最も仲が良かったベスを病気で失い、心が弱り切っていたジョー。長女メグ(エマ・ワトソン)は結婚し家を出て新たな家庭を築き、末っ子エイミーは芸術家を目指しパリで「婚活」に励んでいる。「自立した女性」を目指して生きてきた自分の道は、果たして本当に正しかったのか。7年前、ローリー(ティモシー・シャラメ)からの求愛をはねつけてしまったことは、とんでもない過ちだったのではないか。ライターとしての自信も失いかけ、自分の信念がぐらぐらと揺れるさなか、エイミーとローリーが結婚したことを知ったジョーは、いよいよ孤独を深めていく。

そこでジョーがとった行動は、諦めかけていた執筆に打ち込むことだった。それまで書きためていた文章の断片を、1枚ずつ暖炉で焼いていくうち、最後に残ったのは生前のベスに読み聞かせるため書いていた小品。それを屋根裏部屋に持ち帰ったジョーは、おもむろに紙とペンを取る。そして、意を決して書き始めたのが、「'Christmas won't be Christmas without any presents, grumbled Jo, lying on the rug.」ではじまる『若草物語」の、あの有名な冒頭文と分かった瞬間は鳥肌が立った。

その後は、ひたすら原稿に向かい続けるジョー。夜になれば蝋燭を灯し、短くなると新しい蝋燭に替えて、来る日も来る日も一人屋根裏にこもって文章と格闘する。ある程度ページがたまったら、それを床に並べ、細かい推敲をしつつ順序を組み換えたり、ページごとばっさりと切り捨てたりしながら、次第に小説が完成していく様子が丁寧に描かれる。かつて「ただ執筆するだけの様子」を、これほどドラマティックに映像化してみせた監督が他にいただろうか。

何よりこのシーンが感動的なのは、「自立」や「自由」と引き換えに「孤独」になったジョーが、それを引き受け「孤独を味方につける」ことによって小説を完成させていく姿を描いていること。そんなジョーの生き方だけでなく、「結婚が女性の幸せ」と信じるメグ、「お金こそ幸せ」と信じるエイミー、常に利他的な行動をとるベス、それぞれの苦悩や葛藤を描きながら、「どんな選択を取ったって構わないんだ」という本来の意味での「多様性」に貫かれている点も画期的だ。

例えばメグの結婚について、「そんな貧乏な男と結婚しても後悔するわよ」などと毒づき、「女が自立するには売春宿の女将か女優の道しかない」とジョーに言い放つマーチ伯母や、「小説にモラルなんて必要ない。もっと読者が喜ぶような煽情的な文を書け」と注文する週刊誌の編集長のことさえも、グレタは決して「悪者」としては描かない。ジョーは、自分とは価値観の相容れない彼らと対峙し議論することによって、自分自身の価値観をアップデートし、「自分だけの物差し」を確立していくのだ。ここ数年は「女性の自立」にばかり重きが置かれ、それ以外の生き方を排除するような作品がハリウッドでも増えてきているのが気になっていたが、グレタのような監督がいることに僕は一縷の希望を感じる。

「私が描きたいのは、表現者としての女性、そして女性とお金の物語。今まで誰も掘り下げて来なかった側面から原作を描きたい」

インタビューでこのように語っていたグレタ。しかし本作は、女性でなく男性が観ても、登場人物の誰かにきっと共感するはずだ。否、男であろうと女であろうと、誰しも心の中にジョーやメグ、ベス、エイミーの部分を内包していて、そのグラデーションの中で生きているのではないだろうか。そういう意味ではこの『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』という邦題も、なかなか核心をついているなと思う。少なくとも僕にとって本作は、「これは“僕の”物語だ」と感じることの出来た、特別な作品である。

* 追記:エイミーを三女、ベスを四女と書いてしまいました。正しくは、エイミーが四女、ベスが三女です。大変失礼いたしました。


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