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鳥の啼き声のように、フサフサの毛皮のように、湿った肉球のように饒舌に。

ジャム・セッション 石橋財団コレクション×鴻池朋子
鴻池朋子 ちゅうがえり

「ジャム・セッション」とはアーティゾン美術館のコンセプト「創造の体感」を体現する展覧会を表し、石橋財団コレクションと現代美術家が共演する企画だ。

鴻池作品の合間に、石橋財団のコレクションから作品が数点展示される構成になっていたが、鴻池さんは、この作品選びができず(自分の中でこれだというものが見つけられなかったらしい)、美術館側の学芸員に任せたと会場の展示コメントにあった。

鴻池さんの作品たちは自然にまみれ、自然と化し、そこから生まれるうごめくような物語としてそこにあった。

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山は頭となり、森の中の池は顔をもっていた。ふすまは宇宙のような広がりを与えられ、狼のような人がこちらを見つめていた。

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幾体もの剥いだ毛皮が吊るされ、同じように、白い短冊が鑑賞者の気配に揺れていた。

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鴻池さんは、白銀の川を一人彷徨い、雪に埋もれて(まるで地球から生えてでもいるかのように)ドラえもんの歌を歌っていた。

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この展示では、不思議なことに一つ一つの作品展示というよりは、その全体感に身を委ねていたように思う。

そんな中、「ロンドンのカレー屋で」と題された、
おとぎ話・比較文学・イギリス文学を専門とする村井まや子さん(神奈川大学外国語学部教授)と鴻池朋子さんの対談がとても印象的だった。
長くはなるが、部分的に引用してみようと思う。
(この駄文のタイトルはこの対談からいただいた)

村井 installという動詞は他動詞としてしか使えないので、installされる対象が動詞にくっついた形で現れる仕組みになっているんです。でも、リーズで展覧会をつくる過程をいっしょに体験させていただいた後に、鴻池さんのあのひと言を聞いて、私の認識は逆だった!と気づきました。作家という主体が、それ自体で独立した物としてある作品を、観客に対してどのように見せるかを考えて展示空間に設置する、という構図ではまったくないんですね。それだと、主体と客体の間の線引がはっきりしていて、主体はあくまでも作家で、作品や会場となる空間や顧客はすべて客体の側に置かれてしまいます。この構図をどうにかして崩そうとして、インスタレーションという外見がそもそも生まれたんじゃないかと思うんですが、文法といういのは私たちのものの捉え方を深いところで規定する法則なので、なかなか難しいんですね。
鴻池 その指摘こそ面白すぎますよ、日本語の構造からは気づけないことです。(中略)村井さんがおっしゃっているのは、このinstallという言葉自体が、当初は英文法によって拘束されてきた芸術の表現形態「作家/主体が何かをそこにつくる」という構図を崩し、突破していくためにできた新たな芸術活動だったのではないか、というのですね。しかも、そういうアートの言葉だったはずなのに、英語でinstallと使っていると、「目的語を伴う他動詞」という呪縛に自然に陥り、必ず主語(作家)が場所に向かって何か設置する/造作をする、という従来の主体中心の力の構図に収まってしまうと。

村井 鴻池さんは会場に着くと、まず会場のあちこちに自分の身体を置いて、五感を研ぎ澄ませてその空間を感じ取る、ということから始められました。アーティストも見る人であるということが、そばで見ているとありありと伝わってきて、それはつまり観客もインスタレーションを構成する一部だということなんですよね。
鴻池 主語は「場所が」なんです。その場所が私の全感覚を通して、何をしたがっているのか、を伺いに行くという感じ。(中略)場所としばらく遊んでいると、この建築がどうやって成り立っているか、つくった人の思惑までわかってきて、さらに建物も何もなかった地形も見えてきて、ようやく以前からそこにあった、法則というかルールのようなものが湧き上がってくる。それを見つけられさえすれば、作品というか展覧会は九割がたできたも同じで、あとは制作自体はパパッとやります。
村井 おとぎ話も「作品」として完成されたオリジナルのテクストがあって、それをフレームに入れて展示するというようなものではまったくなくて、語り手と聞き手を含めた語りの空間と共に、その場限りの物語空間として立ち現れてくるんです。だから、同じ話が時代や文化や風土の違いでどんどん変わっていくのは当然で、それが長いあいだいろんな場にさらされてきた、おとぎ話の強さだと思います。
村井 鴻池さんの作品には、動物がいろんな形で、おとぎ話のおけるのと同じくらいよく出てきますよね。(中略)まるで動物とのかかわりが、私たちに物語ることを求めているかのようです。
鴻池 そのは動物とのかかわりの多さが、物語をさらに饒舌にしている、ということですか?
村井 動物とのかかわりがきっかけとなって「語らされる」物語は、言葉が媒体として用いられてはいても、物語のレベルでは、言葉を介するのではない、より身体的で直接的な空間との交感のしかたを呼び覚ましてくれるんじゃないでしょうか。
鴻池 鳥の啼き声のように、フサフサの毛皮のように、湿った肉球のように饒舌に、ですね。
村井 まさに、そういう世界のざわめきですね。魔法が支配するおとぎ話の世界では、動物はもちろん植物や場所でさえも言葉を話しますが、それは鴻池さんが場所に聞き耳を立てて、その法則を感じ取ろうとすることと、表裏一体のような気がします。おとぎ話の動物や自然の言葉からは、単なる擬人化というのではない、人間中心の論理を超えた生の法則とでも呼べるようなものが伝わってくることがあります。
(中略)
鴻池さんが先ほど、展示会場の模型をつくって何度も見て遊ぶ、とおっしゃったのは、おとぎ話の形式に近いなと思いました。私が鴻池さんのアートにおとぎ話の魔法が働いていると感じるのは、そういうところですね。

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【開催概要】
■会 期 : 2020年6月23日[火] - 10月25日[日] ※会期変更
■開館時間 : 10:00 - 18:00(祝日を除く毎週金曜日は20:00まで←当面の間、中止)*入館は閉館の 30 分前まで
■休 館 日 : 月曜日 (8月10日、9月21日は開館)、8月11日、9月23日
■会 場 : アーティゾン美術館 6 階展示室

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