見出し画像

写真の評価軸をSNSに委ねることについて

私を含め、SNSを表現の場として活用している人々にとって、SNSにおけるフォロワー数やいいねの数は、軽視できない存在だろう。
数に執着しすぎるのは良くないけれど、SNSで発表した作品が多くのいいねを集めれば嬉しいし、フォロワー数は作品の知名度を表す一つの指標になり得る、というのが、多くの人の率直な感覚なのではないだろうか。

現在、私は主にTwitterに作品を掲載しており、約3万人の方にフォローしていただいている。
純粋な数字だけ見ると、一般的なTwitterユーザーよりは多い方だと思う。
技術面で未熟な点が多く、今までに写真がバズったこともなく、特定のコミュニティに属したこともない自分が、こんなに沢山の方に写真を見ていただいているのは、本当にタイミングや運が良かったとしかいえない。

私は元々、SNSにおける数字には無頓着なタイプだった。フォロワー数を聞かれた時に、把握しておらず一桁少ない数を答えてしまったこともある。
いや、無頓着というのは正確ではないかもしれない。
むしろ、「◯◯いいねありがとう」を延々と連続投稿するアカウントには違和感を覚えてしまうし、フォロワー数の多い人が教祖のように崇められている様には、どこか薄ら寒いものを感じてしまう。
SNSのフォロワー数至上主義を意識する度に沸き起こる反発心が、私の目を数字から背けさせてきたのだと思う。

フォロワー数が1万人を超えたあたりから、写真家としての私の属性に、フォロワー数が付加的な要素として捉えられることが増えてきたような気がする。
インタビュー記事でフォロワー数を引き合いに出されて紹介されたり、他の写真家からフォロワー数を増やす方法を聞かれたり、明らかにフォロワー数の多い写真家に片っ端から声をかけているような依頼に遭遇したり。
自分の写真そのものの魅力がまだ足りない・発信しきれていないのも要因としてはあるのだが、写真よりも数に注目されてしまうと、少し寂しいなと感じることもあった。

そんな私が、SNSにおける数字を意識し、悩むようになるとは、数ヶ月前には思ってもいなかった。
私の写真に、いいねの数が急につかなくなったのだ。
数ヶ月前から、Twitter上で「自分の投稿がタイムラインに表示されない」「特定の人の投稿しか出てこない」等のいくつかの声を目にするようになった。そして、私の写真がタイムライン上で出てこなくなった、と不思議に思う方からの連絡をいただくようになった。
確かに、自分自身でも思い当たる節はあった。
Twitterを使っていても、一部のバズった写真、そして特定の人の投稿や会話ばかりが目に入る。
フォローしている好きな写真家たちの投稿がタイムラインで表示されることが減り、活動を休止しているのかと思ってその人のアカウントを覗くと、普通に毎日投稿している、ということが何度かあった。
また、十分に知られていない作品や才能のある写真家を発掘したい、という、私が本来抱いていたSNSに対する理想とは、現実がかけ離れていると薄々と感じ始めていた。

そういった諸々の事象を意識したことがきっかけで、自分の写真がこれまでのように見てもらえているのかが気になり、過去の投稿を遡ってみた。

そして、最近の投稿が以下の通り。

こうして今までの投稿を時系列順に見ていくと、ここ数ヶ月でいいねの数が急に減ったような気がしていたが、そうではないことが分かった。
フォロワー数は増え続けているにも関わらず、いいねの数は、去年の夏頃をピークに、じわじわ、じわじわと減り続けているのだ。

原因について考え始めるとキリがない。
去年までは、疫病の影響で家に留まりSNSを見る人が多く、アクティブユーザーが全体的に増えていたが、今になってその揺り戻しがきているのかもしれない。
今年の夏に、前職を退職した旨のnote記事が一部界隈で割と話題となったが、外部リンクをツイートに貼るという行為がTwitterからは嫌われてしまうらしく(検証の記事がいくつかあるので、興味のある方は調べてみてください)、結果的に自分の写真がTwitterのアルゴリズムから選別してもらい辛くなってしまったのかもしれない。
そこまで考えて、いや、こんなことが本質的な原因ではないだろうと冷静に考えてしまう自分がいる。
数年前に比べて、自分の感受性が丸くなり、写真の持つ鋭さが変わってきているのを自覚していた。
SNSに作品を投稿して数年。
認めるのは辛いが、私の写真が鑑賞者に飽きられてしまったのだろう、と、心の底では感じている。負け惜しみ的に言えば、自分の撮る写真は、SNSの世界でウケる写真からは外れてしまったのだろう、ということだ。

どんなに有名なクリエイターでも、人気には波があって、その波が去った後は、凪の時間がやってくる。
そんな例を何件も見てきたし、頭では分かっていたが、いざ自分が飽きられる対象になってしまうと、足掻きたい気持ちと諦めて全てを手放したい気持ち、両極端な感情に体を引き裂かれるような感覚に襲われてしまう。

勉強を頑張れば、試験の点数や偏差値となってその成果が返ってくる。
仕事も、性質によるとは思うが、数字(売上やボーナス額)で達成度を測ることができる場合がある。
しかし、写真が上手く撮れたかどうかの尺度は、どこに委ねれば良いのだろうか。

自分の作品の評価を体感する最も簡易的な方法のうちの一つは、SNSでフォロワー数やいいねの数を集めることではないかと思う。
ただ、一定の機材を持っている人が、大衆にウケそうな被写体や画角を狙い、大衆に受けそうなレタッチを施した結果、いいねの数自体を集めることはそこまで難しくはないのではないこの時代に、SNSでの評価が果たしてどれだけ正当性のある尺度になり得るのかは疑問が残る。
写真を生業にしている方の多くは、SNSを広報の一手段として戦略的に活用し、敢えてSNSでウケの良さそうな写真を投稿することもあるだろうとは思う。
私が問題だと思っているのは、SNSを戦略的に割り切ったツールとして使用しているケースではなく、自分の写真の評価軸をSNSに委ねてしまっているケースだ。
SNSで人気を得るのは簡単だが、その分、斜陽も早いのだということを自覚しないと、過度に落胆することになりかねない。

芸術を愛する心に貴賎はない。それは確かだ。
それでも私は、1秒足らずの間に指先で表明する「いいね」が持つ価値と、先日の写真展で数十分も感想ノートを手放せなかった方が絞り出した言葉の価値を、同列に扱いたくはないと強く思う。

先日、私の好きな写真を撮る若手の方が、「自分らしい写真を投稿したいけれど、SNSではウケが良くないだろうからやめよう」といった趣旨の投稿をしていた。
その方は、とある被写体を撮影した写真が人気を博し、似たような系統の写真を投稿していたが、ある日、それまで投稿していた写真とは全く雰囲気の異なる写真を投稿した。
その写真は残念ながら、普段投稿される写真よりも多くのいいねを集めることはできなかった。
しかし、私はその人が投稿したいつもとは違う写真を見た時、被写体を発見した時の驚きに似た喜びと、その被写体を写真に残せることへの純粋な喜びが真っ直ぐに伝わってきて、とても、とても好きだった。
これからの写真文化を背負う若い方々には、自分らしく表現することを躊躇わず続けてほしいし、そのような表現が叶う環境を守るため、何からの方法で私も尽力したいと思う。

私は、今の自分が撮る写真が一番好きだ。
多くの人から好きだと言ってもらえなくなっても、「国家公務員兼写真家」という肩書きがなくなって今までのように持て囃されなくなっても、それでも尚自分の写真が好きだ。
自分の写真の評価軸は、自分で決めたい。
1年前にカメラを替え、高い機材を購入したこともあり、自己防衛機能が働いているのかもしれない。オワコン化しかけた写真家の吐く、ただの強がりなのかもしれない。
それでも、自分の写真が好きだと心から思えないと、第三者から写真が好きだと言ってもらえた時に、まっさらな心でその言葉を受け入れることができなくなってしまうのではないかと思う。

先日からニュースで騒がれている通り、これから先、SNSが今のままの形で残る保証はどこにもない。
表現の場所が変わっても、自分らしく表現できる場所で、自分の好きな写真を撮り続けていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?