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私にはすばらしい力があるが、それは別に世界を変革したりしない。

こんにちは。
病弱メンタルで会社員ができない自称文筆家の専業主婦、鷹野いづみです。

私には1歳の娘がいるので、童謡をよく聞きます。
その中に「パレード」という曲があり、こんな歌詞があります。

誰だって 心に すばらしい力が
眠っているんだ さあ 目を覚ませ

「うんうん、そうだね」と縦に振った首を、「はて?」と傾げます。

私はどうやら「自分の中にすばらしい力が眠っている」と信じられるようです。
しかし、蓋を開ければ働けない情けない自分がいる。

その一種の落胆を抱えた自分が、そんなことを思えるなんて不思議だと思ったのです。

その時に「すばらしい力」なんて言われると、世界をより良い方向に導く、それも革命くらいの力強さ、強引さを持つものを想像してしまうからではないかと思いました。

でも、同時に「淹れてくれるお茶が美味しい」とか「お話すると元気になれる」とか「ニコリと微笑んでもらえるとどんなにふさぎ込んでてもこっちも笑っちゃう」とか、そんなものも「すばらしい力」のはず。

私は前者も後者も「すばらしい力」だと思っていて、自分には前者を求めがちなのに、パレードの歌詞には後者を感じている。

ここのズレだなと思いました。

誰だって、誰かの世界がちょっぴり色づくような力を持っているはずです。
笑顔であいさつすることかもしれないし、気になったゴミを拾うことかもしれない。
自分のついでに入れたお茶が相手を勇気づけることもあるだろうし、歌詞もうろ覚えに歌った曲が笑顔を呼ぶこともある。

そうやって、この大変な時代は「良い方向」へどうにか少しずつ進んでいるのではないかと思ったのです。

私のご飯で世界は平和にならないけれど、夫と娘は笑顔になってくれる。
夫の会社の業績が良くなっても日本は好景気にはならないけど、給与に反映されれば我が家は助かる。
娘はまだ1歳だけれど、笑ってくれれば私たち夫婦は幸せだ。

そんな小さな小さなを幸せを積み上げて、私たちは「良い感じな世界」作っていっている。

だから、私は歴史の教科書に残るような革命は起こせないけれど、見知った人がちょっと笑えるような、元気になれるような力はきっと持っている(と思いたい)。

それもきっと「すばらしい力」であるはずです。
身近な人にふわりと幸せを感じさせる「すばらしい力」があなたにもあるはずです。

いろんな人の「すばらしい力」が目覚めて、もっといい世界になったらいいですね。

そんなことを思ったのでした。

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