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2020.9.20(月) 今日は回りくどくそこはかとなく翻訳の口調で改行もせず句読点も少なめに

久しぶりに9時間半熟睡した。東京の最高気温は23℃・曇り時々雨。秋の涼しさがやってくると実は憂鬱な気分になる。夏が終わるから寂しいのではなく、体調が崩れるから。子供の頃は秋が来ると必ず喘息になって一度は病院のお世話になり、極太の血管注射か点滴を打つ羽目になった。静脈に打ち込まれた針と動かせないまま上を向いたままの左手。病院のベッドから見た緑がかった平坦な天井。家に帰って布団から見上げた木目の天井はグルグル回って見えた(おそらく気管支拡張剤の向精神的副作用のせいだ)。それでもまるで溺れているか首を絞められているかのようなヒューヒューゼーゼーとノイズ混じりだった呼吸が少しずつ楽になっていくのはありがたかった。ただ寝ているだけなのに鎮まる呼吸と裏腹に薬の副作用で心臓はバクバクする。バクバクしながら発作から開放されてやっと平穏に眠れる夜が来る。とまあ、そんな自分にとっての秋の恒例行事は秋祭りや運動会の記憶と重なっていて、この季節の印象を疎外感と共に身体に刻みつけている。普段はもう忘れているのに、この秋の涼しさが忌々しい記憶をはっきりと思い起こさせてしまう。運動会なんて見事なほどに一つもいい思い出がない。40代を過ぎた頃から自分にあったレベルでしっかり身体を動かす楽しみを知ったが、体育の授業でなかなか思い通りに動かせない己の肉体を好きな女子の前も含むクラスメイトの前に晒す苦行にはポジティブな効能はほとんどなかったと言える。体育にせよ普通の授業にせよ、個人の習得レベルに合わせて教えてもらえるならどんな人でも成長できる楽しみを誰でも味わえるはずだ。たまたま生まれたタイミングの一年間で区切って同じ枠に閉じ込められて競い合う学校のシステムからこぼれ落ちてしまった才能や好奇心がどれだけ多くの損失を生んできたのか。授業がリモートになってその呪縛から一時開放された学生も少なからずいたはずなのに。今日は午後から軽く頭が痛くてぼおっとしていた。喉がうっすら痛いのは昨日しっかり歌の練習をしたからだが、時節柄まさか?と感染を疑うこの2週間ほどの行動はなかったかと振り返ってしまったりして精神的にも不安定。単なる自律神経の乱れだと分かってはいるのだが。ちなみにいま読み進めているカエターノ・ヴェローゾの自伝の影響で、今日は回りくどくそこはかとなく翻訳の口調で改行もせず句読点も少なめに書き進めていきたい気分。そう言えば連休か。以前なら秋の祭日なら必ずどこかでライブだったはずだが今年は至って平常運行、すっかり暦を忘れる。体調は悪いが少し車を走らせる。運転を覚えて良かったと思う。実は車が大好きだと以前も書いたが、喘息持ちだった故に病気を悪化させる排気ガスには憎々しい思いもあって、早く世の中の車が全部電気自動車になればいいのにとずっと思っていた。あれから40年が過ぎてもまだあの頃の未来(©スガシカオ)に僕らは立っていないのだから21世紀の停滞感たるや半端ない。自動車に興味は尽きなかったが、一方エグゾーストノートにもモータースポーツにもときめかずどちらかと言えば珍車の類に目がない質だったので、車好きと公言するのは自粛してきた(「自粛」の正しい使い方)。余談だが(というか今日は余談しかない)ギターはやたらに改造する癖に車は完全ノーマルな状態を保つことに喜びを感じるのは何故だ? 体調はすこぶる悪いまま帰宅後歌を歌ってみる。幸いまだ気管支には別状ないがどうにも集中できない。最近こんな時は「もしここがステージだったら」とイメージしてどうにかこの不調を克服して完奏できるように挑むのだが、それでもだめなものはだめだった。観念してゆっくり風呂に浸かったら今日を支配していたうなじからコメカミにかけての頭痛もいつのまにかどこかに消えていた。

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