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2020.6.29(月) 二足目のわらじ

今日の空。真夏の雲だった。

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今日はこの記事を読んで、「二足のわらじ」について考えていた。

みんな、できることを懸命にやってる時期。コロナ禍でなかなか出口が見えないミュージシャンにも、同じようなことを考えている人は多いと思う。

確か2008年頃、友達からこんな話を聞いた。
アメリカのインディーズミュージシャンの多くは副業を持っていて、音楽以外の仕事で生計を立てながら、自分だけの音楽を突き詰めている、と。

その話を聞いた時、僕は素敵だなと思った。
やりたい音楽を思い通りにやることが、自分の理想だから

アメリカでは日本よりも早くCD不況がやってきた。2008年は後に急成長しアメリカの音楽業界を復活させる原動力になるSpotifyが始まった年なので、CDからサブスクへの世代交代の端境期でもあった。

*出典:https://www.statista.com/chart/12950/cd-sales-in-the-us/

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CD不況を経て、多くのミュージシャンたちはライブを軸に糧を得るやり方でサヴァイブしてきた。だがこのコロナ禍でそのビジネスモデルも考え直さなくてはいけない時期に差し掛かっている。


僕自身も2013年から二足目のわらじを履いている。ひょんな縁でお誘いがあって、まったく予期せずお受けすることになった「京都精華大学ポピュラーカルチャー学部・特任教授」という仕事。当初は5年間の契約だった。

精華大は多くの学生たちが教授のことを「さん」付けで呼ぶフランクな大学なので、「センセイ」というイメージはしっくりこない。何しろ同僚がスチャダラパーのBoseくんだったりしたし、オープンキャンパスの時は校内で普通にセッションしたり。2013〜16年まで在学していた中村佳穂ちゃんともよく学内で一緒にイベントしていた

下の自伝的エッセイに詳しいです。

今振り返っても、よくやってたなと思う。

ラッシュアワーを避け6時に起きて電車を乗り継ぎ京都入り。毎週1コマの講義+2コマの実習で計6時間、日帰りで帰ることも。後半の3年間は一泊して、3コマの授業を月・火と二日間こなして、くたくたになりながら終電近くに東京に戻ったり。時にはツアー先の九州、四国、広島から直接京都入りして授業を終えてから東京に戻ったり。講義の準備や資料作りはえらく時間がかかる。日曜の夜は悩みながらよく夜ふかししていた。


この話を初めに頂いた時は、お受けするかどうか1ヶ月悩み続けた。ちゃんと教えられる自信がないし、毎週京都に通うのはツアーなど音楽活動にも制約ができて、大きな負担になる。何より、音楽以外の仕事を始めることに、ある種の「敗北感」のような、後ろめたさを感じて

とはいえ、メジャーレーベルと契約していた頃のことを振り返ってみると、あの頃は次々と決まるリリースに忙殺されていて、プロモーションやレギュラーのテレビ・ラジオ出演、雑誌の連載執筆など、作品と自分のキャラを世に広めるための活動にもかなりの時間を費していた気がする。もちろんありがたいことなのだが、かつて自分が想像していた「音楽を作る」ミュージシャンの仕事とは違う「タレント業務」に追われている感覚も強かった。

あの頃は「ミュージシャン」と「J-POPアーティスト業」の2足のわらじを履いていた。今はそんなふうにも感じる。

90年代後半に独立してからは、音を出す・作る仕事に集中できた。J−POP時代には思い通りにできなかったギタリストやサウンドプロデューサーとしての仕事も身について、かつて自分が思い描いていた音楽家になれたと思う。要は裏方志向が強かった、と言ってしまえば身も蓋もないが (苦笑)

自ら望んで始めたわけではなかったけれど、今は大学で教える機会を頂いて本当に良かったと思っている。芸術系大学はかなり特殊なコミュニティだけど、音楽業界の井戸から出て新しい仕事に取り組めた経験はとても大きかったし、もちろん収入の面でも大いに助かった。

思えばあまりにも世間知らずだった。社会に出てからそれまでの24年間、基本音楽以外の仕事をしたことがなかった。どんな現場もスタッフがアシストしてくれたし、ハンコを押す書類の作成は大の苦手だった。

だから、二足目のわらじを履いたことでやっと自分が一人前の社会人になれたようにも感じる。自粛生活の最中にネットを使ってガシガシ発信できたのも、YouTube世代の大学生と交流する中で、ネットの使い方が自然に身についていたからこそ。

2018年度からは特任教授から客員教授に立場が変わって、年に数回特別講義やワークショップに出向くだけになった。今年は大学全体が通常のカリキュラムさえも大変な状況なので、出番はもう少し先になりそう。

これからも大学の仕事が続いてゆくのかは、自分の意志だけでは決められないことなのでわからない。もしかしたら来年以降、新しいわらじを探して履くかもしれない。でもこれからも、今までと同じように音楽を作り、奏でるだろう。音楽という一足目のわらじを脱ぐことは絶対にない。

よく晴れた6月の終わり、そんなことを考えていた。

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