1997_タイトル

中村一義くんとの出会い・フライングキッズとの別れ / 音楽人生・第二章の始まり (1997)

*2020.1.14 加筆修正しました。

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*1997年の出来事: 世界初のクローン羊誕生 / IBMのコンピューター・ディープ・ブルーが史上はじめてチェス世界チャンピオンを破る / 香港がイギリスから返還される / 米国の火星探査機が火星に着陸 / ダイアナ元イギリス皇太子妃パリで交通事故死 / 地球温暖化防止京都会議で京都議定書が採択される / ペルー沖で観測史上最大規模のエルニーニョ現象が発生、世界規模の干ばつや洪水など異常気象が発生 / 14歳の少年による酒鬼薔薇事件や18歳未満の少年による凶悪犯罪が注目される / 1997年9月から1998年8月までの統計で写真フィルムの出荷量が過去最多となるが2000年以降はデジタルカメラの普及で減少 / 「もののけ姫」劇場公開

90年代後半には、サニーデイ・サービスやくるりなど、はっぴいえんどの系譜を感じさせる20代の日本語のロックが鳴り始めていた。

1997年初頭、中村一義という新人のデモをもらい、一聴して驚いた。ビートルズの影響を色濃く漂わせながら、ローファイやグランジのざらついた質感に90年代らしさを感じた。個性的な歌詞・歌声はエネルギーに満ちていた。

1993年のBECKのデビュー以降、一人でたくさんの楽器を重ねてチープな機材で録音する手法が一般的になり、英語の「Bedroom Recording」を和訳した「宅録」という言葉も音楽ファンの間で知られるようになっていたが、僕が「宅録」の先駆者トッド・ラングレンにあこがれて一人で音楽を作り始めた80年代末には、まだ「宅録」の言葉はなかった。


中村君はドラム・ベース・ギター・キーボード・ヴォーカルのすべての演奏と録音を一人でこなすマルチプレイヤーだった。コンピューター(打ち込み)は一切使っていないが、録音はテープではなくてハードディスクレコーダー(当時普及し始めたミュージシャン向けのデジタル録音機器)を駆使しているという。

僕のデビュー時の担当だったディレクターが中村くんのデビューアルバムに関わることになった縁もあって、1stアルバムのレコーディングでは何曲か僕がギターを弾くことになった。レコーディング初日、確か「永遠なるもの」を録った日。中村くんから詳細な注文を受けたのはよく覚えている。「スライドギターはギブソンES-335のセンターピックアップで」とか「フレーズのその部分はグリスじゃなくてチョーキングで」とか。

一瞬イラッとしたけれど(笑)、彼の頭の中には精密な設計図があって、その通りに再現したいんだということはすぐに察した。何故なら同じく宅録出身の僕もプロになったばかりの頃、自分で弾いたデモのイメージがスタジオで再現できずに悩んでいたし、時には先輩に無礼なオーダーをしてしまったことがあったから。

「ベステンダンク」が好きだったという中村くんとは意気投合して、1stと2ndアルバムで沢山ギターを弾き、何度か家にも遊びに行った。初期の中村一義作品が録音された自宅スタジオ「状況が裂いた部屋」はまるで「トキワ荘」のような昭和の佇まいの日当たりの良い木造アパートの2階にあって、グレッチのドラムとか、リッケンバッカーのベースとか、むき出しのまま円筒状に積み上げられた何十枚ものCDとか、山と積まれたお笑いや映画のヴィデオとか、グレーに光るAKAIのハードディスクレコーダーとか、吸い殻でいっぱいの灰皿なんかが雑然と置かれていた。その光景は、アルバムアートワークの佐内正史さんの写真のイメージと渾然一体となって(ジャケットで煙突に見える白いモノは実はタバコの吸殻)、今も僕の脳裏に強く焼き付いている。

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