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「長生きして申し訳ない」となぜ謝らなければならないのか

「高野さん、議会で忙しいのに生活保護の相談についてきてくれてありがとうございました。相談員の方もすごく良くしてくれたよ」とわざわざ丁寧にお電話を頂いた。嬉しいことこの上ない。しかし、相談時に発した女性のこの言葉が今でも耳から離れない。

「長生きして申し訳ない」75歳。息子のような年齢の私の前で、そして孫のような年齢の相談員に向かってその言葉は発せられた。なぜこの人は謝らなければならないのだろう。どんな悪いことをしたのだろうか。謝らなければならないほどの状況に追い込んだのは、一体なんなのか。ずっと考えている。改めて憲法25条をめくる。

「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」 「国は、すべての生活部面について社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

そもそも憲法というものを遵守する義務は、誰にあるのだろうか。国民なのだろうか。違う。権力者である。それはつまり国であり、自治体である。では、人が意図せず困窮に陥った時に、謝るべきは誰なのだろうか。我々政治行政の側ではないのか。

「すべての人に健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるにも関わらず、日々の食事に困るまで追い込んでしまい、そしてその事に気づかず大変申し訳ございません。衣食住、そして健康面等で困ることがないようすぐに支援させて頂きます。」

「どんな人であれ、病気になったり事故にあったり、そしていつかは身体が動かなくなり、働けなくなる日が来ます。私も決して例外ではございません。そういった状況に陥ったとしても困る人が1人もいない社会を全力で創っていきます。今はまだ道の途中かもしれません。でも皆様のご意見ご要望を伺いながら、目標に向かって着実に確実に進んで参ります。それが我々の責務であり、やりがいです。」

これこそが目指すべき国家像の根幹となる考え方ではないだろうか。今回の生活保護相談は、私にとって何ものにも代えがたい貴重な経験となった。政治の原点をもう一度振り返るきっかけとなった。相談者、紹介者に心から感謝いたします。

高野はやと@江東区