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【掌編】 メメント・モリ 刹那の記憶

 その男は、よく仕事の予定を忘れて課長に大目玉を食らっている。
 いくら怒鳴られても翌日にはけろりとして一週間も経てば似たような失敗を繰り返す。一流大学を出てどんな些細なこともメモに書き付けてそれでなんで忘れるんだやっぱり足りないのはやる気なのかと、叩かれる陰口の量も半端じゃない。

 けれど男のそれは、本当はやる気がないからじゃない。大学も終わり近く、卒論も出して就職も内定してさあ卒業というちょうどその頃合いに交通事故にあったのだ。良くある映画のように男は記憶喪失になった。殆ど何の外傷も残さずに脳に障害を負って、部分的に。
 大脳のどこかの部分が、本当にほんの僅か損傷して、今の医学では一生二度と元には戻せないらしい。自分が誰かも分からなくなって彷徨うなんてことは起こらなかったし運命の恋も出会わなかった。だが、その代わり、連綿と続く日常の中で数日に一回平均数時間ばかり記憶が抜け落ちる、すっぱりと。躍起になってメモを取って無くした時間を埋めようとしても、ひどいときにはメモの在処をメモを取ったこと自体を忘れるのだから、何度でも失敗は繰り返される。自分では繋がった、どこかが抜け落ちた時空間不連続。
 この会社にはそのことは隠して入った。内定はもらった後で、卒論も無事だった。
 黙っていた。
 それならば何故私がこれを知っているかというと、本人に聞いたからだ。彼に。学歴は無事だしね、と彼は笑った。それから目を伏せた。彼が何故私に唐突に打ち明け話をしたのか彼の理由は分からない。或いは飲み会の陰に隠れて洗面所で吐いていた彼の背中をさすってやったからかも知れない。

 夏に近い、週末を控えての飲み会はとめどがない。彼は自身の役割をどう位置づけていたのだろうか。仕事ではミスが多い、その理由は隠して、それならばせめて宴会要員をと?褒められた話でもない、同情を引くにも陳腐、彼がそれほど愚かだったとは思いたくない。大して強くもないくせにやけに陽気に浮かれて飲んで騒いで浴びるほど飲んで、そしてこっそり吐いて。
 吐いていたのは洗面所、狭い飲み屋でトイレも何も一つしかなかった、鍵くらいかけろ、行き合わせたのは当然の成りゆきだった。
「指を突っ込んで吐けよ。」
 男はぎょっとして、吐瀉物を口の周りにつけたまま振り返った。あまりオーバーアクションは避けた方がいい、ネクタイにゲロが付く。
「喉の奥まで、指2本、思いっきり突っ込んで吐くんだ。」
 頭を押さえた。上げさせると、零れて床に飛び散る。
「うがいもしろ。顔も洗えよ。」
 トイレットペーパーをロールで取って、飛沫を拭った。換気扇を回して、臭気を追い出す。そして男も。こちらもトイレが近かった。
 男は余裕なく去った。おそらく会場に。
 世話を見たのは、その一度きり。それで懐かれたというなら、不思議でもある。

 男がひた隠しにしていた秘密を聞いたのは昨夜だ。
 昨夜、男はうちに来た。
 自宅は教えていなかったが、同じ会社だ、社員録を盗み見るなり、人に聞くなり、知る手段はいくらでもある不思議はない。
 不思議なのは、男がわざわざうちに来た理由だ。
 入っていいと顎をしゃくったのは、男が死にそうな顔をしていたからではないと思いたい。それでは捨て猫を拾うのと変わらない。
 椅子もない、男はずっとベッドの端に腰掛けて、そんな話をした。それから他のこともした。
 夜が明けるころ、男はへへ、と情けなく笑って出ていった。
「何も忘れたくない。」
 だが、お前、お前は忘れてしまうかも知れないんだろう。
 この時間さえも。
 私は黙っていた。そして返事をしなかった。
 それはひどいことだったのだろうか。
 だが、男はそれも忘れるかも知れない。

 それからまた、男は、大きなミスを出して今度こそ会社を馘になった。


 多分もう会うこともないだろうと思うが、男が、お前が覚えていられないなら、私が覚えておいてやる、いつもは無理だが、たまに、幼い日の夕立を思い出すように、冬の稲妻を思い起こすように。

 お前が覚えていられないなら。



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