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【実話】 手形

二十年以上昔の話だが、その頃、私はとある施設で働いていた。

まあ、正確には違うのだが、今でいう老健施設のようなものであったと思ってもらえればいい。

そこでは当然住人の健康に配慮せねばならず、詳細は省くとして、休日には決まった時間にラジオ体操とストレッチが放送で流れるようになっていた。

 義務ではないが、ほぼほぼ動ける人間は廊下に出て来て、どちらかをする。

 それはまあいい。


 ただ、人がストレッチをするときには、案外と、身体の支えに壁や手すりに手を付きたがる。

 こちらはできればつかせたくない。

 ほんの僅か、ちょっとの間でも手をつけば、昭和建築の漆喰のような壁に沁みた手の脂は、数年経てば目を覆うような手の跡となって壁に滲み出る。

 何十個、何百個と廊下に染み出して並ぶ手形は夜の廊下としてみるとそこそこ奇怪な光景だ。

 まあそれでも、原因が分かっているうちはいい。

 何年かごとに、白いペンキを持ち出して来て、壁を塗る。

 また白い壁になる。


 私が今でも不思議に思っているのは、普通のストレッチでは絶対につかない、天井付近に、いつのまにかいくつも点在した、べったりと黒ずんだ手形の存在だ。

 腐っても施設、天井は高い。


 3メートル以上ある天井の、その付近に近い場所で、誰もストレッチをできるものはいない。

 そもそも、ハシゴを使わなければ、登ることすらできない。

 けれども、いつのまにか、いくつも手形は付いているのだ。

 自由な向きに。

 中には「天井からぶら下がって手でも付いたのか?」という逆向きにさえ。


 それも風物詩、何年かに一度塗り潰し、また浮き出るものだった。


ただそれだけの話だ。


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