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科学と思考の限界

予め言っておくが、この文章はまとまらないであろう。
何故ならば自分自身の思考すらも未だにまとまっていないからだ。
しかし少しでも誰かの共感を得られればと思いnoteに書き記しておく。

幼少の頃から暇さえあれば、人とは何かこの世界とは何かを考えるような子供だった。
死んだあとで体や意識はどうなってしまうのか、この宇宙とは一体何であるのか等を考えること自体は、ほとんどの人が子供時代に経験済みなのではないだろうか。

そして、幼い自分は死後への好奇心と恐怖、宇宙の果てには一体何があるのだろう、と想像しては怖れ、また胸をときめかせていた。

それが大人になるにつれ、この世界はただひたすらに「この世界」でしかなく、意識とはただの電気信号であり、死後など無く、宇宙は未だ解明されていないことを知った。

そこにはただただ己の遺伝子を面々と繋いでいく現実だけがあり、そこに意味は無く、いずれ地球も太陽も、銀河系でさえも終わりを迎えるであろう。

宇宙。銀河。星団。太陽系。地球。俯瞰した際の、たった1人の自分の存在の無力さたるや。
生きていることへの意味など見出そうとするものならば、たちまちその思考は迷宮入りしてしまう。

だからこそ幸せに生きるべきだというありきたりな言葉は心の芯の部分には全く響かない。終わるものは終わる。
どんな偉業を成し遂げた人も、さんざん悪事をはたらいた人も同じ最期を迎える。

何かを遺したところで、いずれ風化し、地球と共に消滅する。これは運命でもなんでもなく、とっくに分かりきっている変えようのない事実なのだ。

救いなどない。

他の人たちはこの様なことを考えないのだろうか。
若しくはひととおり考えた末に答えが出ずに諦め、生きているのだろうか。
はたまた様々な神に救いを求めているのだろうか。

そもそも私ごときが"どうにかできないことに対して絶望感を抱く"ことすら烏滸がましいことではあるのかもしれない。
いったんこの思考ループに入り込んでしまうと、もう止まらなくなる。

どうせ自分は消える、どうせ人間は滅びる、どうせ地球も死に、太陽も死に、果ては宇宙も消えるだろう。
ならば"今"自分が何をしようが、どう生きようが、まったくの無駄である。

そして、私たちヒトはこの消えゆく運命をどうすることも出来ない。
いくら思考を巡らせても、たった80年やそこらの間では地球が死ぬことをどうにかすることすらできないのだ。

ならば自分の子供はまだ良いとして、その子供は。子孫は。
顔すら見ることもないだろう、自分の遺伝子を紡いだ果ての人類に思いを馳せる。

終いにはどうしようもない無力感、さらに絶望感を覚え、動悸が始まり手が震えてくる。
その場にしゃがみ込むことしかできなくなる。
もうSSRIのお世話にはなりたくない。
生きていること自体に意味はないと言い聞かせ、良き母良き妻をまた始める。

生きている意味を見出そうとするからこそ、迷宮に足を踏み入れてしまうのだ。

ここまで書いて感じたが、この歳にもなって心頭滅却出来ていないこと自体が恥じ入るべきことかも知れない。

やはりまとまらなかったが、またさらに10年後、20年後には心持ちも変わり、受け入れ方が変わっていることであろうと思うので、遥か忘却の彼方に置き忘れていなければ、また10年後に同じテーマで何処かに書き記してみようと思う。

最後まで読んでいただき、あざまる水産。

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