大奥怪談2 大奥女中を脅かす狸と乗物部屋の惨劇
狐や狸が人を化かしたという昔話は、全国各地にあります。たいていは人へのいたずらで、普段通る道で迷子にさせたり、人に化けて食べ物をくすねたり。それだけ、狐や狸はかつて身近な存在だったのでしょう。ただし、いたずらなら笑い話で済みますが、なかには人の命が奪われることもあったようです。江戸城本丸大奥で起きた凄惨な事件は、果たして何者のしわざであったのでしょうか。
夜中に大奥女中を脅かす狸
東京23区内で武蔵野の面影を最もよく残すのは、実は皇居の吹上御苑であるともいいます。武蔵野台地の東端にあたり、徳川将軍が住まう江戸城だった時代には、吹上は火除け地も兼ねた広大な庭園でした。そこには狐や狸の類も棲んでいたようで、大奥に関する記録の中で、狸に関するものもいくつかあります。たとえば大奥女中であった村山ませ子が、明治時代に体験を語っています。
ませ子が14歳で、江戸城本丸大奥の御次を務めていた頃。ちなみに御次とは、大奥の仏間や茶道具の管理、対面所の清掃、献上物の持ち運びなどを担当する大奥女中の役職です。御次はお目見え以上の身分(将軍や正室である御台所に謁見できる)であり、旗本の娘でなければ御次にはなれません。ませ子は、こんな風に語ります。
「御次の者の掃除は、八ツ(午前2時頃)から始めます。当番は2人ずつで、掃除は新参の者が多く務めました。皆、就寝している時間ですので、寝所に遠いところから始めて、毛払いでソッソッと、音を立てないようにします。また、縁側の廊下の雑巾がけもします。深夜で真っ暗ですから、金網灯籠から燭台に火を移して、ぼんやりと薄暗い灯りの中で掃除をするのですが、あるとき、大きな狸が縁側の階段に足をかけて、仰向けになっているのに気づきました。そして狸は私の方を向いて、大きな口をパクリと開いて見せたのです。びっくりしましたが、かねがね音を立てたり、声を出してはならぬと、固く言い聞かされていましたので、小声で「畜生畜生」とののしり、雑巾を丸めて投げつけていったん逃げました。そして年上の同僚に知らせて、一緒に引き返してみると、狸は悠々と階段から白洲へと降り、縁の下に入っていきました。誰でも新参のうちはたびたび狸に脅かされますが、脅かすだけで、別に悪いことはしません」(三田村鳶魚『御殿女中』)
なんと将軍以外男子禁制の、警戒厳重な本丸大奥御殿の縁側付近まで、夜中に狸がたびたび入ってきていたというのです。本丸は、吹上庭園のある曲輪とは堀を隔てていますが、狸のような野生動物からすれば、侵入するのはわけもなかった、ということなのでしょうか。
狸との契約
一方、将軍側室の御中臈が出産する際、狸にほどこしを行ったという話が『文政奇談夢物語』の中にあります。ちなみに御中臈は将軍や御台所の身の回りの世話をする役職で、将軍付きの御中臈は、定員8人。将軍はこの中から、側室を選びました。『文政奇談夢物語』の話は文政3年(1820)7月、11代将軍家斉の側室、おいとの方が出産のため、御産所の部屋に移る際のことです。
「お部屋を移る日は大奥の御殿を挙げて喜びに包まれ、3日間、祝いのご馳走が振る舞われます。その際、狸へも振る舞いがありました。大きなはんぎれ(たらいのような桶)に赤飯3升、その上に50匹のイワシを並べて、部屋の裏手の縁側に夜のうちに出しておきます。その際、『ご馳走をするので、必ずいたずらなどしてはならぬぞ』と書いておきました。明朝、縁側のはんぎれは米粒一つ残さず平らげてあり、代わりに御礼のつもりなのか、はんぎれの中に烏1羽、雀2羽が入っていました。迷惑なお返しをしてくれるものです」
狸のために、ご馳走を縁側に置いておく。その代わり、お産をする女性にいたずらをしないという、大奥側と狸の一種の「契約」があったというわけです。出産する女性が御産所に移る際には毎回、これが行われたといい、狸が人間の言葉を解し、約束ができる相手であると当時の人々は半ば信じていたようです。ここまでの話であれば、いたずら好きの狸相手の、ほのぼのとしたエピソードといえるかもしれませんが、狸にはそれだけではない別の一面もありました。
狸は人を殺す
「狐の七化け人取らず、狸の一化け人を取る」という言葉があります。狐は色々なものに化けるが、人を殺すことはない。狸は芸が少なく高坊主(大入道)に化けるだけだが、見上げている隙に喉笛にかみついて、人を殺してしまう、というのです。
たとえばよく知られる民話の『かちかち山』も、人を殺す一例。老夫婦の畑に毎日やってきては不作を願う歌を歌い、まいた種をほじくり出して食べてしまう、性悪の狸が登場します。おじいさんは罠を仕掛けて狸を捕らえ、おばあさんに「狸汁にしてしまえ」と言って、畑に向かいました。縄で縛られた狸は「もう悪さはしない。畑仕事を手伝う」とおばあさんに訴え、縄を解かせると、おばあさんを杵で殴り殺し、さらにその肉で汁をつくると、おばあさんの姿に化けて、帰ってきたおじいさんに汁を勧めました。何も知らないおじいさんが汁を食べると、狸は正体を現わし、「婆汁を喰った、婆汁を喰った」と嘲笑って、逃げていくのです。なんとも、極悪非道な狸です。
この他にも東北地方には、狸が人を殺して舌を食べると、「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」といった言葉が話せるようになる、といった言い伝えもあるようです。狸が人を殺すこともあるとして、では、次に紹介する『文政奇談夢物語』に記された大奥での事件、はたして狸のしわざだったのでしょうか。
部屋の者の失踪
文政4年(1821)6月のこと。つまり先ほどの、狸に振る舞いをしたおいとの方の出産の翌年の話です。おりう殿という御祐筆衆の一人が長局(宿舎)で使っていた、部屋の者(個人的な女中)がいました。御祐筆衆とは大奥の最高権力者である御年寄を支えて、書類や手紙の執筆をする役職です。御祐筆衆の勤めは朝五ツ(午前8時頃)からですので、身の回りの世話をする部屋の者は、いつも七ツ半(午前5時頃)に起床します。その日も時間通りに起きたのですが、そのままどこかに行ってしまいました。同僚の女中も、主人のおりう殿も驚き、心配しますが、五ツになったので、おりう殿は食事もとらずに御殿に出勤します。その後も他の女中たちが探しますが、部屋の者は一向に見つからず、日の暮れる頃、やむなく大奥を管理する御広敷向の男性役人に、行方不明者がいると届けました。
夜に入ってから役人衆とその配下の者たちが調べ始め、翌日は長局の25ヵ所の井戸、縁の下、各物置、長局内に5ヵ所ある乗物部屋まで綿密に調べましたが、手掛かりがありません。たちまち3日が過ぎ、昼夜の別なく辻々に番人を立て、長局内をぐるぐる廻って探しますが、見つからず。4日目に、今一度、乗物部屋の乗物(駕籠)を一つひとつ出して、その中を改めようということになりました。乗物を外箱から出し、乗物を包む油単(器物を湿気や汚れから防ぐため、布や紙に油をしみこませて覆ったもの)を外して中を改めるという面倒な作業です。
密室の死体
そして長局二之側(南から2つ目の長屋)角の乗物部屋で、藤嶋殿という中年寄(御台所付きの御年寄の補佐役で、毒見役なども務める)の乗物を改めたときのことでした。網代鋲打ち(網代は竹などで編んだもの、鋲打ちは角部分に金具をつけて塗りがはげないようにしたもので、女性の乗物特有)の立派な乗物です。中を改めると、全身血まみれの部屋の者が、仰向けになり、秘所をあらわにして事切れていました。すぐに医師が呼ばれますが、死後、随分時間が経っていたようで、血は黒く変色しています。おそらく、まだ生きているうちに乗物に入って、命を落としたのでしょう。全身の血が流れ出たらしく、乗物の中は血がたまって、手のつけられない状態でした。
「この人は日頃、うっかりしたところがあったので、狸に魅入られたものであろうか」と大奥内で噂し合ったといいます。確かに御殿内に狸は多かったらしく、たとえば草履をぬいで用事をしているうちに、いつの間にか草履の向きが正しく直されていることがよくありました。そんな時に、「無礼な」と怒って草履をはかなないと、あとから狸に脅かされるので、皆礼を言って、はいたといわれます。
それにしても、乗物はすべて油単に包まれ、さらに丈夫な外箱にしまわれています。その乗物の中に、部屋の者はどうやって入ったのか。さらにいえば、乗物部屋にはいずれも乗物が70から80挺入っており、2ヵ所の入口には頑丈な錠前がついていて、常に施錠された密室なのです。どう考えてもこれは人のなせることではなく、妖怪のしわざに違いないと大奥の女性たちは震え上がりました。
部屋の者が失踪した4日間に、長局二之側の乗物部屋の鍵を開けた者はいたのか。また身分の低い部屋の者が、殺される理由は何であったのか。その辺の記述はなく、詳細はわかりません。そのため怪談として伝わり、人外の者の犯行だとしたら、御殿内でしょっちゅういたずらをする狸のしわざかもしれない、という噂が流れたのでしょう。しかし、村山ませ子が語るように、大奥に出没する狸は「脅かすだけで、別に悪いことはしない」ともいいます。もし狸でないとしたら、何者が部屋の者の命を奪ったのでしょうか。
以前、ご紹介した「大奥怪談」では、女中あらしの死体が天守台石垣の上から、夜中に何者かによって投げ落とされています。今回の乗物部屋のある大奥長局は、天守台石垣の東側に建ち並んでいました。現在の東御苑内、桃華楽堂などが建つ一帯で、付近は自由に見学することができます。いまは大奥の面影をとどめるものとてありませんが、歴史が刻まれたその土地には、まだ得体の知れない何かの気配が残っているかもしれません。
参考文献:三田村鳶魚『御殿女中』(青蛙房)、山本博文『将軍と大奥』(小学館) 他