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斎藤義龍はなぜ父・道三を討ったのか?ドラマで描かれない実像を探ってみよう

昨日に引き続き、大河ドラマ『麒麟がくる』がらみのテーマです。斎藤道三(さいとうどうさん)の息子・義龍(よしたつ)。『麒麟がくる』では道三を本木雅弘さん、義龍を伊藤英明さんが演じて、父子の対立が見せ場の一つになっています。父・道三のやり方に常に異(い)を唱える義龍。その根底には、出生の疑惑がありました。

すなわち本当の父は道三ではなく、母親深芳野(みよしの)を側室にしていた美濃(現、岐阜県)守護・土岐頼芸(ときよりのり)ではないのか。そして頼芸を軽んじ、美濃から追放しようとする道三は、実父の敵ではないのか。従来語られてきた道三・義龍の対立の要因です。それを『麒麟がくる』も踏襲しているわけですが、果たして実際はどうだったのでしょうか。


道三を討つまで、義龍は高政とは名乗っていない

『麒麟がくる』では義龍の名を斎藤高政(たかまさ)としています。しかし実際に義龍が名を高政にするのは、父・道三を討ちとってのちのことでした。元服してから道三と戦う直前までは、斎藤新九郎利尚(しんくろうとしひさ)と名乗っています。もちろんドラマのように明智光秀が「高政」と諱(いみな)で呼びかけることはなく、「新九郎」「十兵衛」と通称で呼び合うのが普通です。なお義龍という名は、最晩年に改名したものでした。ちなみに斎藤道三の名は利政(としまさ)ですが、普通は受領(ずりょう)名の山城守(やましろのかみ)などと呼ばれていたはずで、織田信長も若い頃は通称の三郎か、受領名の上総介(かずさのすけ)と呼ばれています。

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義龍の両親は誰なのか

さて、義龍の出生疑惑は、実際のところどうだったのでしょうか。義龍の母とされる深芳野は美濃守護・土岐頼芸の愛妾で、斎藤道三に下げ渡されたところ、十月十日を経ずに義龍を生んだと語られてきました。しかし、その内容が書かれているのは江戸時代の史料で、同時代史料には見出せません。それどころか深芳野の名も同時代史料にはなく、その実在すら疑われているのが現状です。では、義龍の生母は誰なのか。

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義龍は非常に体格がよく、身長は約197cmもあったといいます。道三の体格がよかったという記録はないので、考えられるのは母親の体格を受け継いだということでしょう。該当するのが道三の正室と考えられている稲葉氏で、美濃一の美貌にして身長は約181cmもあったといわれます。つまり義龍は道三の正室・稲葉氏が生んだ後継者となるべき嫡男であり、側室深芳野の子でもなければ、土岐頼芸の子でもないのです。ではなぜ、義龍は父を討ったのか。その詳細については和樂webの記事「父を討ち、信長の前に立ちはだかった!マムシの子・斎藤義龍の数奇な生涯に迫る」をぜひお読みください。

最悪の結果を招いてしまった父子関係

記事はいかがでしたでしょうか。斎藤道三は娘婿の織田信長と対面して以来、義龍を含め息子たちの器量は信長に及ばないと見抜きました。だからこそ義龍に家督を譲っても、政治を任せきれず、自分の力で美濃を信長に高く売りつけたいと考えたのかもしれません。しかし、それが義龍の疑念を呼ぶことになります。長良川の合戦の折、道三は自分に攻めかかる義龍の采配に対し「見事である」とほめたと伝わりますが、もう少し早く、息子を評価してやっていれば最悪の事態は免れたのかもしれません。

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一方の義龍も、父を討ったことは道義的な面でその後の人生に重くのしかかっただけでなく、後世の評価までも下げてしまった部分があるでしょう。義龍が在世中、信長は美濃に有効な手を打つことができませんでした。それだけ義龍の統治と防衛が優れていたといえるはずなのですが、今に至るもなかなか義龍の力量や人物を再評価されることはないようです。父と子の反目や齟齬(そご)は古今珍しくありませんが、最悪の結果を招いてしまった斎藤父子の関係からは、今でも反面教師とする点が多いといえるのではないでしょうか。

なお、今回の記事作成にあたり、下記の書籍を大いに参考にしたことを申し添えます。松波庄五郎から龍興(たつおき)に至る4代の研究の最先端がわかり、俗説を払拭した研究姿勢が説得力を生む内容となっています。道三らの斎藤氏に関心のある方にはおすすめです。


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