見出し画像

小早川秀秋の裏切りはいつ? 毛利輝元は何を狙った? 関ヶ原合戦の真実を探る

日本史上における天下分け目の合戦といえば、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦がまず挙がるでしょう。東西両軍およそ15万が衝突し、勝者となった東軍の主将・徳川家康(とくがわいえやす)が天下の覇権を握ることになったのは、よく知られるところです。しかも、東西両軍の激戦が演じられる中、勝敗の決め手となったのは、西軍と見られていた小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りでした。

まさにドラマチックな展開だったといえますが、近年、これに疑問符がつくようになりました。小早川秀秋は本当に土壇場(どたんば)で寝返ったのか? 美濃(現、岐阜県)の南宮山(なんぐうさん)で毛利秀元(もうりひでもと)らの参戦を押さえ込んだ吉川広家(きっかわひろいえ)は、本当に独断だったのか? 西軍総大将の毛利輝元(てるもと)はなぜ大坂城から動かず、また東軍が勝利するとなぜあっさり退去したのか? 今回は、最新研究から見えてきた関ヶ原合戦の裏側についてまとめた記事を紹介します。

画像1

『関ヶ原』の数々の名場面

以前、noteの記事で、昭和56年(1981)にTBS系列で放送された6時間ドラマ『関ヶ原』のDVDを紹介したことがあります。司馬遼太郎の小説を原作にしたもので、当時を代表する名優たちの競演も見ものでした。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死の直後から、天下への野望を露(あら)わにしていく徳川家康。それを阻止しようとする石田三成(いしだみつなり)。7人の武将の襲撃を、あえて家康の屋敷に逃げ込んでかわす三成のシーンや、家康の難癖に直江状(なおえじょう)を叩きつける上杉景勝(うえすぎかげかつ)の執政(しっせい)・直江兼続(なおえかねつぐ)のシーン。あるいは家康暗殺を謀(はか)る三成の家老・島左近(しまさこん)の一瞬のためらいや、余命を捨て、三成とともに起つことを決める大谷吉継(おおたによしつぐ)の友情など、まさに名場面にあふれていました。

画像2

私もいまだにDVDの各シーンが、脳裏に焼き付いています。ストーリーの大きな流れは通説に基づくものですが、しかし研究の最前線では、いわゆる通説の多くが疑問視されたり、否定されているのも事実。もちろんドラマの原作である司馬遼太郎の『関ヶ原』は小説ですので、史実と異なっていてもとやかくいわれる筋合いはありません。ただ小説やドラマが優れた作品であるだけに印象が強く、私のように戸惑う人も少なくないのではと思うのです。

毛利輝元も小早川秀秋も西軍に乗り気でなかったのか

関ヶ原合戦の通説は、江戸時代に記された数多くの編纂(へんさん)物などがもとになっています。それらの多くは関ヶ原合戦でいかに藩祖が徳川家を助けて奮戦したかを記すことが目的で、幕府へのPRを意識したものでした。西軍に味方していた大名たちも、本当は最初から東軍の徳川家に心を寄せていて、やむを得ない事情で西軍についたかのように記されています。つまりそうしたバイアスを外さないと、真相は見えてこないわけです。

たとえば毛利輝元は、もともと家康と対決するつもりがないのに、石田三成の懇望で西軍総大将に祭り上げられた。しかし乗り気ではないので大坂城から出ようとせず、豊臣秀頼(とよとみひでより)とともに出陣してほしいという西軍諸将からの要請にも応じなかった、というのが通説です。しかし実際は、西軍決起の知らせを受けると猛スピードで広島から大坂城に駆けつけており、しかも毛利秀元に6万の大軍を率いさせています。これが乗り気でない武将の行動だったのでしょうか。

画像3

また小早川秀秋も最初から家康に心を寄せており、西軍の中心地である上方にいたがため、なりゆきで西軍として振る舞わざるを得なかった『稲葉正成家譜(いなばまさなりかふ)』は記します。しかし、実際は秀秋が関ヶ原の松尾山に布陣してからも、何度か東軍側から誘いの密書を受けており、秀秋が東軍につくとはぎりぎりまで表明していなかったことがわかります。では、秀秋が「寝返る」決断をしたのはいつだったのか。詳細は和樂webの記事「小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ!」をお読みください。

まだまだ多い関ヶ原の謎

さて、記事はいかがだったでしょうか。小説やドラマの『関ヶ原』の名シーンが頭に焼き付いている人ほど、衝撃を受けてしまうかもしれません。記事中には記しませんでしたが、関ヶ原の戦場における西軍、東軍の布陣位置も、必ずしも明確ではないようで、場合によっては今後、関ヶ原合戦そのもののイメージが大きく変わってしまう可能性もあるでしょう。

しかし、現在把握されている同時代史料からだけでは、どうしても埋まらないピースがあるのも事実で、今後、新史料の発見があることを期待したいと思います。なぜ三成は大垣城を出て、関ヶ原で戦うことにしたのか。なぜ大谷吉継は山中村に布陣していたのか。大津城を西軍が攻略目前である知らせは、届かなかったのか。関ヶ原をめぐる謎はまだまだ多いといえそうです。




いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。