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斎藤道三はいかにして美濃を奪ったのか? 『国盗り物語』が描かなかった真実

昨日から引き続き、テーマは斎藤道三です。
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、本木雅弘さんが好演する斎藤道三。これまで多くの役者が演じてきた道三の中でもとりわけ格好よく、ダークヒーローながら魅力的です。

その道三による美濃(現、岐阜県)奪取の「国盗(くにと)り」は、道三一人ではなく、道三の父・松波庄五郎(まつなみしょうごろう)と道三の二代で実現したものであることを昨日紹介し、道三の父についての和樂webの記事「斎藤道三は二人いた! 親子で成した新説『国盗り物語』」をご案内しました。
本日はその続きにあたる、父の跡を継いだ道三が、いかにして美濃一国を奪ったかについてまとめた記事を紹介します。

「国盗り」というイメージを定着させた小説

斎藤道三については、かつて坂口安吾(さかぐちあんご)や中山義秀(なかやまぎしゅう)、海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)といった作家が取り上げ、描いてきました。

中でも読者に強いインパクトを与えたのが司馬遼太郎(しばりょうたろう)の小説『国盗り物語』でしょう。僧侶あがりの油売り松波庄九郎が、持ち前の才覚と教養、野望で美濃土岐(とき)家に食い込み、ついに国主に上りつめるまでが小説の前半で描かれます。国を奪う「国盗り」という言葉はおそらく作者の造語でしょうが、この作品以後、道三といえば「国盗り」というイメージが定着したように私は感じています。なお、『国盗り物語』の後半の主人公は、道三の後継者ともいうべき織田信長と明智光秀です。

昭和48年の大河ドラマに

『国盗り物語』は昭和38年(1963)から3年間、雑誌に連載され、多くの読者から支持されました。それを受けて、昭和48年(1973)のNHK大河ドラマ『国盗り物語』の原作となります。ドラマでは斎藤道三を平幹二朗、織田信長を高橋英樹、明智光秀を近藤正臣が演じました。現在、総集編がDVDになっているようですので、『麒麟がくる』と観比べてみるのも面白いかもしれませんね。

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道三はいかにして美濃を奪ったのか

さて、とはいえ『国盗り物語』はあくまで小説であり、そこに描かれているように、斎藤道三が一介の油売りから一人で美濃を奪ったのは史実ではありません。実際は父親が美濃守護代(しゅごだい、美濃を支配する守護土岐氏の補佐役)である斎藤氏の家老・長井氏のナンバー2にまで出世し、跡を継いだ道三はそこからスタートできたのです。とはいえ、道三のポジションは、国主である守護土岐氏→守護代斎藤氏→その家老(小守護代)長井氏→そのナンバー2ですから、そこから何段階も階級を飛び越えて国主の座を奪うのは、やはり容易なことではなかったでしょう。では、いかにして美濃を奪ったのか。その過程については、和樂webの記事「『美濃のマムシ』と呼ばれた男・斎藤道三! まんまと国主の座を奪った恐るべき下剋上の真実とは」をぜひお読みください。

事実と小説の間

学生の頃、『国盗り物語』を読みながら、斎藤道三がのし上がっていく姿に夢中になりつつも、「そんなにとんとん拍子にいくものなのだろうか。乱世とはいえ、美濃土岐家はそんなにゆるい組織だったのだろうか」という疑念がふと頭をよぎったことを覚えています。それが最近になって、道三の父と道三の二代にわたる「国盗り」であったことが歴史的事実として定着し、自分としても「その方が納得できるな」と感じました。

しかし、それでも道三が国主になるには、たびたび下剋上(げこくじょう、下位の者が上位の者を倒すこと)を行わざるを得ず、無理を伴ったようです。それが美濃諸侍からの評判の悪さとなり、息子義龍(よしたつ)と対立すると、道三に味方する者が極端に少ないという結果を招いたのでしょう。

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一方で、そんな道三に共鳴したのが隣国の織田信長でした。道三が美濃の「国盗り」を行ったとすれば、信長はある意味、それを広げて「天下盗り」を行ったといえるでしょう。そして信長の「天下盗り」を大いに支えたのが明智光秀であるとするならば、なるほど、小説『国盗り物語』が示すように、道三の志を信長と光秀が受け継いだといえなくもないのかもしれません。もっとも3人とも、その最期は悲劇的でした。皆さんはどうお感じになるでしょうか。なお、道三の息子義龍については、また機会を改めて別の記事を紹介します。

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