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ピョコタンの「祖母が亡くなりました」の動画で涙…

ピョコタンの人生論について語る動画が好きだ。
「【訃報】3/20に祖母が亡くなりました【人生論】【ピョコタン】」は必ず見るべき。

先日、父親が脳の病気にかかり手術を行った。
脳を触ったことで、言語障害などが出て意思疎通が厳しい状況に陥った。
人間っていつ「死」があるのかを考えたことがあるだろうか。

「おばあちゃんがティッシュを並べて攻撃をガードしている」
「赤ちゃんみたいな扱いをされているおばあちゃん」
「自分のことを認識しないおばあちゃん」
ピョコタンの動画の中でおばあちゃんとのエピソードが語られている。
社会的な死は、人間としての生命の死とは異なる。

「その時点でもしかしたら、おばあちゃんはもう死んじゃったのかもしれないな」
この言葉が非常に心に響いた。
まさに同じ状況になったわけである。

結局のところ、エピソードは聞いているだけでは分からない。
同じ立場にたって見なければ、分からないだろう。

話は変わって、俺自信の「人生論」について。
「120歳まで生きる」をモットーとしているので、社会的な死を避けたい。
ただ生きているだけにはなりたくないと強く感じた。
形あるものはいつかなくなることを覚悟しなければならない。

相手を認識できなくなった時点で「死」である。
それは悲しいことである。
さらに悲しいことは、脳の回路の関係でふと「生」が蘇るときである。
止まった時間が動き出しそうで動かない。

亡くなるまでにどう過ごすかが大切である。
実家は仏教関係で、寺がうるさく非常に迷惑。
死んでからではなく、死ぬまでの過程、思い出が大切である。

あまり関係ないが、父親が病に落ちてから父の姉が非常に厚かましい。
こちらの家庭の事情に口を出し、逐一報告をしてくる始末である。
こうなっては終わりだなと、反面教師にする次第である。

檀家を引き継ぐこともやっていかないといけない。
田舎で長男の宿命であるが、こんなものは不要派である。
家の中に小さい仏壇もどきを置いて、供養するスペースがあればそれで良いのではないか。


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