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【掌編】座敷童子

「引っ越すことになった」
 私が言うと、振り向いた彼女の目は火が点いたように一瞬輝き、すぐにまたいつもの色に戻った。シミひとつない、磨き抜かれた黒曜石のような瞳。
「急な話だったんだ」
 言葉にしてしまうと、なんだか馬鹿みたいに感じる。必要以上に言い訳がましく聞こえるのだ。私は何度か頷き、仕方がないことを言外に伝えようと試みる。だが彼女はこちらを向いてさえいない。俯いて、怒りを殺しているのだ。肩は震えていない。彼女はいつも雨水を吸い込んだハンカチのようにして怒るのだ。私は最後にもう一度大きく頷いた。
「悪い」
「どうしたらいいの」
 存外、心細そうな声。あまり、彼女の口から聞くことはない。ついさっきまでの、くだらない喧嘩が嘘のようだ。私は気持ちを悟られないよう下唇を噛んだ。
「どうしようもない。いつかは移動する。最初からわかっていたことなんだ」
 彼女は私を見上げた。怒りや寂しさ、その他諸々の感情がないまぜになった心の機微が、瞳の窓の奥に、ゆらゆらと揺れていた。
「そうね。最初からわかっていた。あなたがいつか私を捨てて出ていくことも」
 
 仕事か、女か。なんて凡庸な問だろう。これまでに何万、あるいは何億もの人が同じ問に苦しめられてきたのだ。私には、縁のない話だと思っていた。ましてや、相手は人ですらないのだ。
「捨てるなんて言い方はよしてくれ。俺だって、どうにかできるものなら」
 彼女を引き離すことができれば。この家から。この土地から。そうすれば我々は新しい物語を紡ぐことができるかも知れない。だがそんなことは不可能なのだ。

「何も求めていないのよ。一緒に、居てくれるだけでいいんだ」
 私は歯を食いしばった。世も末だ。神が、人に救いを求めるなど。
 私の目の前には二つの道が開けていた。ひとつは、私が求め続けた夢へと続く道。その門が、いまやっと開かれたのだ。
 もうひとつは、突然に現れた人ならざるものたちの林道。それは私の知識を越え、感覚をも越えた、光なき闇の底へと続いている。

 彼女の言うように、ここに残るとしよう。私は夢を諦め、何か生活を維持するだけの仕事を日々こなしながら、彼女とともに生きていくのだ。
 私は、いつか彼女を恨むだろう。彼女のために夢を諦めたことで彼女を憎むだろう。私は凡庸な人間なのだ。

 その夜、寝室に彼女の姿はなかった。天井の裏から、この家に初めてやってきた日と同じすすり泣きの音が聞こえてきた。三百余年前に失われ、いまも失われ続けている魂の哀れな声が。姿は変わらなくとも、中身は大人だ。悠久の時は、嫌でも人を成長させる。あるいは神霊をも。
 二年前の私には何の覚悟もなかった。いままた、彼女から離れていくことを思うと、過去の自分を後ろから蹴り飛ばしたくなる。私にはこの家で暮らす資格などなかったのだ。彼女とともに、同じ時を過ごす権利などなかったのだ。

 翌日以降、彼女は姿を消し、二度と現れなかった。最後の日まで、別れの挨拶もなかった。すべてが長い夢であったかのように。
 私は胸に空いた穴を抱えたまま、翌週町を去った。

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