日本酒とジャズと、恋を語る男の夜
私の隣で、編集者K氏が呟いた。さっきまで仕事の話しをしていた舌の根も乾かぬうちに。
飲み屋の席だから何を話したって構わない。でも唐突に浮気を匂わすその言葉、どう切り返せばいいか困ってしまう。
ここは都内某所。10人足らずでいっぱいになる小さな古民家風の飲み屋である。マスターとママは聞こえぬふり。
完全予約制の隠れ家飲み屋は、写真撮影御法度である。
最初の1杯をやり出したときは、お決まり程度に仕事のことを話していた。忙しいという話題から、K氏、奥方の機嫌が悪いと愚痴が出た。
奥方があてつけのように家の隅から隅まで大掃除して、K氏のあれやこれやを捨てたらしい。
なんだ、昔の話しか。浮気の告白じゃなくてほっとした。同時にちょっとがっかり。人の不幸に刺激を求めるワルい癖だ。でも続きが気になる。
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K氏が冷や酒をおかわりした。
この店は、酒も肴も絶品である。
日本酒は、ママが客の気分を聞いて見繕う。私に出されたのは山形の名酒「くどき上手」。口当たりも喉ごしもいい甘口フルーティーな大吟醸だ。シャインマスカットのような華やかな芳醇さ。ひとくちめからぞっこんである。
K氏はもっと米の味がズシンとくる濁り酒。私よりも口の滑りに弾みがついているようだ。
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さてさてK氏、ジプロックの中には奥方からの手紙も入れていた。あろうことか、昔の彼女の手紙と一緒に、である。
そりゃあ奥方、面白いわけないだろう。しかもジプロックとは、まるでただのラブレターコレクションではないか。相手が誰かよりも、「ラブレター分類」というひとくくりが許せない。
奥方が、自分の手紙だけ残して他は全部捨てたのも頷ける。妻としてあっぱれだ。人としてどうかは知らないけれど。
K氏、遠い目をして嬉しそうだ。気にしているのは奥方ではなく、昔の彼女か……。
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聞いてみれば、彼女との恋愛話しなんて他愛のないものだった。
付き合ってこじれて彼女に裏切られ、その腹いせにK氏は彼女から離れたけれど、卒業して地方都市で就職した彼女と手紙のやりとりをした。一度だけ会って、それ以来ぷっつり途切れたという、そんな顛末。
ありがちな話しを、K氏はいかにも大事件のように話した。人がどう思おうと、彼にとっては人生の分岐点くらいの出来事だ。
つまんないねとからかいながらも、はしゃいだ気分で聞き入った。
私だって、いまだに気持ちが掴めない人のことを封印している。やさしすぎる残酷さに泣き腫らした、若き恋の傷だけど。
グラスに残っている「くどき上手」は、あと半分ほど。おかわりしたら、私も口を滑らせそうだ。
鯛のカルパッチョをひと切れつまんだ。今夜は聞き役を楽しみたいから、おかわりは我慢しようかな。
店に漂う、女性ヴォーカリストのジャズナンバー。いま流れているのはヘレン・メリルだ。気怠いようなハスキーヴォイスがお酒によく合う。
流れている曲は『You’d Be So Nice to Come Home To 』。有名なナンバーだが、「家に帰ればあなたがいて嬉しい」みたいな歌なのだ。
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“家に帰ればあなたがいるから嬉しい”……。
奥方の怨念が店にまで届いたか。
私は笑いが止まらない。一緒に口ずさんでしまいそうだ。
かといって、K氏の晴々とした顔つきはなんだろう。ちょっと愚痴をこぼして昔の恋を思い出し、それでスッキリしたのだろうか。美味しいお酒で早々と、自分のピュアで苦い気持ちにまどろんだのか。
頬杖をつき、隣に座るK氏を横目で見た。
小さなグラスを持つ手の甲には、太い筋が走っている。大人の分別で生き抜いてきた轍のようだ。その中に青い情熱を、そっとしまい込んでいたらしい……。
最近noteに書いた、太宰のロマンチシズムを思い出した(記事末尾参照)。
カウンター越しのママが笑いをこらえている。それを見た私、栓が抜けたように声を出して笑ってしまった。ママもたまらず声を上げる。
女同士、心の中でこう言っていた。
バカじゃないの、この先もずっとバカを通すつもりだ。
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そろそろ看板だとママが頭を下げる。ご時世だろう、夜もたけなわの22時にはお開きだ。
美味しい日本酒とジャズナンバーで、ありふれた思い出話しも艶めいた。格子戸を開ける、緩やかな稜線のようなK氏の肩。奥方の呪いがスーッと転げ落ちたような気がした。
門口で見送りのママと二言三言話している間に、K氏の姿は消えていた。相変わらず逃げ足が早い。勘定と丁寧な挨拶を済ませた途端、雑踏に消えてしまう人なのだ。
彼、きっとこんなことを思ったに違いない。
女の立ち話なんか御免だよ。
*掲載写真について
・UnsplashよりNichika Yoshidaさんの写真を使用
・photoACよりとまれまさんの写真を使用
・photoACよりbBearさんの写真を使用
・Pixabayよりgraindivresseさんの写真を使用
・photoACよりてんなおさんの写真を使用