ノワールから希望の繋ぎへ。ブレードランナーと2049、ラストシーンだけを語ります
『ブレードランナー2099』のAmazon製作が9月に公式発表されました。
最近のSF海外ドラマに落胆していたので、永遠の名作『ブレードランナー』から3本の前日譚映像と『ブレードランナー2049』を全て再視聴。
『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』が続いているという意識で観ると、それぞれのラストシーンの解釈が広がります。
ここでは、これらの作品の特徴やストーリー紹介はいっさいしません。
SF的な背景や原作者PKDのこともいっさい除外。
ラストシーンのことのみ語ります。それでも分量、全然足りない。
その代わり、私独自のラストシーンの意味、そしてブレードランナーシリーズとは何かに決着つけますからね。
もちろん個人の解釈なので、正解・不正解なんてものはありません。
こんな感じ方もあるんだなあ、くらいにどうぞ。
*『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』とも、Amazon Prime Videoで視聴できます。
*完全ネタバレです。核心部分を知りたくない方、ここでご退場ください。
1ー『2049』は新しい聖書の物語
まず『ブレードランナー2049』の世間の評価を見ると、面白いくらい賛否両論です。
つまらないと言う人たちは3時間に迫る長さ、抑揚のないテンポとシーン、わかりづらい結末にダメ出しを。
面白かった人は、芸術性を重視したハイクオリティ映像に着目した意見が目立っています。
私としては、ちょっと長過ぎ。もっと尺詰め(時間カット)できるだろうと。綺麗だし退廃感も漂っていて、アートだとはじゅうぶん感じますよ。
画作りが凄い、タルコフスキーのオマージュって言われても、なんか飽きる。いや、冒頭でサッパー・モートンの家を燃やす計算され尽くした構図なんか、むしろタルコフスキーを越えてるじゃないですか。
でもね、それが映画の力強さにまで行っていない。
画作りや演出で言えば、キューブリックを観るような圧倒的な緊張感に匹敵するとは思えない。そこまでのデラックスな興奮ではないんです。映画という文法の中の存在感として、ただ美しいだけという。
SFとしてのプロダクトデザインで評価すべてきところはいっぱいあります。
でも今回はラストシーンのことしか語りませんので、ここまで。
エンターテインメントとしても弱い?
アートとしても、もうあと一歩?
でも、『2049』はすごく大事な作品として息づいている。
それはあのラストシーンがあるからです。
主人公のK(Nexus9型レプリカント)がデッカードに娘のステリン博士を会わせ、自分は雪の上で静かに横たわり、笑みを浮かべて目を閉じる。深い傷を負い、命の幕を閉じるという美しいシーン……。
このシーンへのダメ出しの意見は「わかりづらい」に尽きるようですね。
K、何がしたかったのと。これまで自己犠牲して死んでいくキャラに描いてなかっただろうと。スカッとせんわ!と。
その気持ち、わかります。エンタメ的なカタルシスが得られないから。
でもね、あの雪のシーンで安堵して微笑み、静かに終わる……で大正解なんですよ。
これまで陰鬱でダークなトーンで描かれていた背景が、雪で明るく照らされている。ここにも大きな意味があると私は見ています。
なぜなら、これは聖書の物語だから。
あ、私の独自解釈、もう始まってますからね。
Kは、イエス・キリストの使徒になったんですよ。
これからそういう話しをしていきます。
レイチェルは、レプリカントながら子どもを作るという奇跡を起こしました。
Kは自分がその子どもではなかった事実を、レプリカント革命軍の女リーダー・フレイザから聞かされて落胆します。
フレイザは奇跡の出産に立ち会い、レイチェルの最期を看取り、奇跡の御子を隔離して守ってきたレプリカントです。
彼女はそう言い、Kにデッカードを殺すよう命じます。囚われたデッカードが調べられれば自分たちの存在が明るみに出る。革命は果たせない。
でも、Kはデッカードを殺さなかった。反対に、デッカードの存在を消そうとするウォレス社のラヴと凄絶な戦いに挑み、デッカードを救出します。
Kはなぜデッカードを殺さなかったか。
デッカードが父親だと移植された疑似記憶のためでしょうか。
それもあるでしょう。でもKを突き動かしたのは、もっと大きな何かです。
Kはサッパーの、フレイザの、このことばに突き動かされたのでしょう。
自分が生きた証し、次に繋げる希望。
だからKはデッカードを殺すのではなく、隔離されていた娘、奇跡の御子ステリン博士に会わせるんです。
この奇跡によって新しい世界が始まるんだと。レプリカントの苦しみから解放される、新しい世界が─。
Kにとっての死は、大義のために命を落とす喜びに変わりました。自分が生きた証しです。歴史を変える参加者になりえた喜び。だからこそ穏やかで安堵した微笑みを浮かべたと思います。
Kはイエス・キリストの使徒になった。
デッカードは、神の父親ヨセフです。
そしてキリストは……。
続編『ブレードランナー2099』はここから始まる新たな聖書の物語として、壮大なサーガになりそうな予感でいっぱい。
この解釈、大胆ですか?
いえいえ、そう考えるとあらゆるつじつまが合いますから。
1-1 「神話」の威力。『スターウォーズ』はアメリカ人の神話
私が聖書物語を思い浮かべた前提に、アメリカにおける神話の存在があります。
『スターウォーズ』は、アメリカ人にとっての神話になりました。
神話とは、聖書以前の物語のことです。自然や国の成り立ち、人々のルーツなどを定義する始まりの物語。
歴史の浅い国アメリカには、国造りの神話がありません。略奪の事実だけです。そこはむしろ、目をつぶりたいところでしょう。
神話学者ジョセフ・キャンベルの著書『千の顔をもつ英雄』には、「神話」の原理がどれだけ人々の心を動かすかが書かれています。とにかくパワーがあるんですよ、自分たちのルーツの物語というのは。
アメリカ人は、自分たちの神話を渇望していたはずです。ローマやギリシャの建国神話、はたまたアーサー王伝説に匹敵するような、自分たちオリジナルの強いよすがを。
ジョージ・ルーカスは本書とキャンベルに多大な影響を受け、『スター・ウォーズ』シリーズに父と子の神話的要素を織り込みました。そこにアメリカ人的な文化、思想や価値感を散りばめたんです。
こうしてアメリカ人にとっての神話ができました。映画という国家産業を通して作られるとは、いかにもアメリカらしい。
映画はもちろん、2000年以降発刊のアメリカンミステリーを読んでいると、『スターウォーズ』のセリフ引用や、比喩や暗喩に出くわすことが度々あります。他の何ものでもない『スターウォーズ』のね。
例えば『死んだふり』(D.ゴードン)。
弱い若者を騙して服従させるくだりの「私はおまえの父親だよ」と言うセリフ。ここは笑うところです。誰にでもわかるセリフのパロディと考えると、これは映画という枠を越えて、もっと熱狂の中で浸透しているんだなと。それ即ち、神話性です。
神話が人々に与える威力は、もちろん日本にも見られます。例えば『古事記』と『日本書紀』には決定的な違いがあり、故意的な史実書き換えの謎が浮上します。
誰が? それは当時の権力者たち。神話の歴史をわざわざ書き換えするほど、民への影響を怖れました。
史実改竄にまつわる書籍はたくさん出ています。それぞれ解釈が違うのも面白い。ぜひ検索してみてください。Kindleの読み放題マンガにさえ、このテーマを扱った作品を見た覚えあり。
キャンベルによると、聖書だって「神話の構造」で編纂されていると言いますからね。
1-2 外国映画で無視できない、聖書・宗教の概念
『ブレードランナー』も、『スターウォーズ』と同じ展開を目指しているんじゃないでしょうか。
アメリカ人の心の拠り所、原点回帰としての新しい「聖書物語」。
『スターウォーズ』が神話なら、『ブレードランナー』は宗教ですよ。
聖書も日本人は大の苦手。でも世界という大きな目で見たとき、聖書の理念が理解できないのは痛手です。
社会学・憲法学者の小室直樹氏は、日本や中国に民主主義の基本である「契約」という理念が生まれなかった原因も、欧米文化を正しく理解できないのも、キリスト教の存在を軽視しているからだと警告しています。
聖書的な「契約」とは、我々日本人が想像するような生っちょろいものじゃありません。旧約聖書なんて、神との契約を破ったら「オマエらにこれだけの破滅と不幸をお見舞いしてやるから覚えとけ」と書かれているような書ですから。誤解を怖れずに言うと。
この辺りの基礎教養補完には、やっぱり小室先生の著書を薦めたい。入門レベルの『痛快!憲法学』など、入門とは侮れない内容です。民主主義や聖書についてもわかりやすく書かれているので、ぜひ検索して調べてください。
もうね、外国映画と宗教は密接なんですよ。私たち日本人が思うよりもずっとずっと、宗教的解釈を交えた方がしっくりくることが多いんです。
かつて日本のアニメ監督の間で、聖書の引用を作品に散りばめる作風が流行りました。でもしょせん付け焼き刃。宗教観がないんだから謎解きのひとつにしかならず、深みや文化に届かないのが残念です。
2ー『ブレードランナー』、ラストバトルの謎に解答を
今度は大元の『ブレードランナー』に話しを切り替えます。
この映画で語り継がれているシーンの1つに、ラストのデッカードと反乱レプリカント・ロイの壮絶バトルがあります。
高層ビルの屋上から突き出る鉄の梁につかまり、転落の危機にさらされているデッカード。いよいよ力尽きて手を離したとき、ロイが手首を掴んで引き上げ、デッカードを助けます。
まさかのロイの行動に、観客は想像を巡らせました。
レプリカントが最後に人間以上の心を得たとか、実はレプリカントの方が人間味があったとか、自分の最期を誰かに見て欲しかったから等々。そしてこの物語の深さにしみじみする。感動に泣く。
まあ、私も同じようなことを長い間ずっと思っていたんですね。
ところがですよ。
『ブレードランナー2049』への繋がりを意識すると、その解答では何かが足りない。
デッカードとロイは敵同士というだけでなく、「生」に対しても対極の考えを持っています。
延命が叶わないと悟ったロイは、死に直面しても尚、生きることを切望している。一方デッカードは、人生に落胆して屍のように生きている。
ここで強調しておきたいのは、レプリカント反乱分子のリーダー・ロイが地球に侵入した目的は、人間への復讐でも殺戮でも暴動でもないということ。
彼らNexus-6型レプリカントの寿命は4年です。自分がもうすぐ死ぬ恐怖と戦いながら危険な奴隷労働に従事している。
反乱戦士たちは、もっと生きたかった。自由を勝ち取るよりも何よりも、まず延命するのが先決だった。生みの親タイレル博士に延命の手段について話したかった。それだけなんです。
ロイはタイレルのことをFatherと呼びかけています。字幕では何も訳されていません。スルーです。
このFather、ただの距離感ある父親のことでしょうか。もちろん自分たちを作った父親には変わりないけれど、私は神としての絶対的な存在の意味合いだと感じました。神父への呼びかけってFatherでしょ。あの感じ。
その神が、延命の手立てはないと言う。すべての希望を失ったロイは、最大の罪である父親殺しに手を染めます。頭を潰したのはなぜでしょう。その程度の知恵しか持っていなかったことへの落胆でしょうか。
ロイは本物の堕天使となり、デッカードと対峙──。
でもロイには迫り来る命のリミットがあった。命の残り火が僅かだと感じた彼は、自分の右手に釘を刺します。
あれは、どう見ても聖痕(スティグマータ)。
キリストが磔刑のとき打ち込まれた釘。ロイは奇跡を求めて釘で手のひらを突き刺したんです。そして奇跡を得て、再び力がみなぎりました。これこそ復活ですよ。
この後デッカードをさらに追い詰めるロイですが、最後は手を差し伸べてビルの梁から落ちるデッカードを助けます。
2-1 描かれたことが全て。本よりも、完成映画を信じる。
ポール・M・サイモンの『メイキング・オブ・ブレードランナー』を読むと、身も蓋もないことが書かれていました(この本、超有名です)。
ロイには「躊躇」という感覚がないため、誰かが落ちればすぐに掴むだけだと。最後にデッカードを助けたのはロイの反射神経で何の感情もないと。リドリー・スコットがロイ役のルトガー・ハウアーにそう言ったと書かれていました。
イヤ待て、と言いたいですね、私。著者のポールに。
それはちょっとおかしくないかと。落ちそうだったから助けた? タイレル博士の頭を握りつぶして目をえぐったり、逃げるデッカードの指を1本ずつ折りまくったりしているロイの行動説明がつきませんけど。
ふたりとも恐怖と痛みで叫びまくっている。
それは反射的に助けないのだろうかと。
ロイが自分で手を下している場合は別という設定?
そんな都合のいい裏設定、言い出したら何でもアリじゃないですか。
まあ、リドリー・スコットが本当にそう言ったとしましょう。そんな裏設定もあったとしましょう。
でも著者のポール、インタビュー中に「リドリー・スコット、わけわからんこと言うとんな」って思わなかったのか。どうして「それだと辻褄あいませんけど」とツッコまなかったのか。
余談ですよ。私、1本の映画の製作中から完成上映後、パッケージ販売に至るまで、とある日本人監督に張り付いた編集者と一緒に、3冊の映画メイキング本を書いたことがあります。私が監督から話しを聞いたのは完成後だけですけど。
その編集者が言うんですよ。監督、最初と今とじゃ全然話しが違ってきてると。監督はつくづく嘘つきだと(そんな監督ばかりじゃありません)。
企画段階でのこと、撮影中、映画が公開されてひととおりの評価が出た後では、ちょっとちょっと……と思うくらい言うことがズレている。
情報は後から補完されるものだし、記憶は都合のいいように上書きされます。監督に限らず、誰にもあることです。
そういうわけでこの本の、この情報についてだけはあまり信用していません。嘘だとは思っていません。でも明らかに違和感のある発言をポンと書いているだけなので、鵜呑みにできないってことなんですよ。
だって、完成映像に表現されていることだけが事実ですから。
肝心なのは映像で描かれたことだけですからね。描かれてないことは何を言ってもダメ。
私たち観客もね、描かれていない裏設定のことなんかこれっぽっちも気にしなくていいんです。そんなもん知るかって話しです。
だから私は完成映像の演出だけで、純粋に解釈していきますね。
私は釘を刺した聖痕でロイは奇跡を得て、瞬間的に生まれ変わったと感じました。
それはレプリカントが人間以上の心を持った、というのではありません。
デッカードを助けた手は、釘を刺して聖痕のできた右手です。だから助けることも奇跡、あるいは必然だった。
だってそういう演出でしょ、意味のあることとして観てるんですからね、こっちは。
だからロイの最後のセリフが印象的なんじゃないですか。
奴隷としての悲しみだけでなく、美しいものも見た記憶を話すロイの穏やかさ。それがもう消えてしまうという儚さ。
情緒的で詩的な言葉で、ロイはこの世に生きた証しを短く呟きます。
デッカードを助けたのは、悔しさと憤りと儚さを伝えるため。
強引ですかね、この解釈。でも、ここはイマジネーションの膨らませどころ。
私はこれでフッと腑に落ちたんです。
物語の大詰めで、デッカードはレイチェルを連れて逃亡します。死ぬ間際まで、生を渇望したロイの生き様に何かを感じたはずです。
ロイの奇跡がデッカードにも起こる。そんな予感だけを残して、映画は終わります。
これなら『2049』にきれいに繋がる。そんなふうに思いました。
3ー『2049』のラストシーンは、始まりのイコン
もう一度、話しを『2049』のラストシーンに戻します。
『ブレードランナー』の奇跡は、ロイが釘で聖痕を作ったところから始まりました。
その奇跡はデッカードに伝わり、レイチェルはレプリカントながら子どもを宿すという奇跡を起こします。そしてその奇跡の御子こそが、レプリカントに夢の記憶を移植していたアナ・ステリン博士です。
Kは自らを犠牲にすることで、神の御子をその父に逢わせる奇跡をおこしました。
純白の雪に包まれて眠るKの姿は、永遠のイコンとなるはずです。
イコンとは、宗教画や宗教彫刻などキリスト教における聖像のこと。
私は3時間に及ぶ映画の中で、新しい聖書物語の象徴・イコンとなるこのシーンを作るのが目的だったと思っています。
ここで流れる音楽は、『ブレードランナー』のラストバトル、ロイが最期に呟くシーンで流れた「ティアーズ・イン・レイン」なんですよ。
ちゃんと2つの作品を繋げているじゃないですか。象徴として。
これは生きる証しを次に伝えた、美しく尊厳なる死へのレクイエム……。
このあとに続くすべての物語は、Kが純白の雪に倒れたここから始まるのでしょう。
新しい人間たちの聖書の物語が。
これが私のブレードランナーシリーズの解釈です。
だから『2049』は全然エンターテインメントじゃないんですね。
正解、不正解なんてのはどうでもいいんですよ。映画からのメッセージをどう受け取るかだけの話しですから。
4ー『2099』は、A級エンターテインメントになる予感
2022年12月21日現在、新たな『Blade Runner 2099(原題)』の情報はまだまだ不確かです。決まっているのは製作総指揮メンバーだけのようですね。脚本家、監督もまだのよう。
リドリー・スコット自身のアイデアが踏襲されたパイロット版プロットが完成しているらしいので、それに資金が集まったのでしょう。
ハリウッドはスクリプト(脚本)ありきです。まず、そこに資金が集まります。監督が決まるのはその後。資金集めのスクリプトは、この後、変化していきます。脚本家の入れ替えも珍しい話しじゃない。
この先どうなるかはわかりませんが、『2049』までで基礎固めできているとするならば、ここからはガラッと変わってA級エンターテインメントになるはずです。どんどん走り出す。興奮と熱狂を呼び込むはず。
今、アンドロイドを扱ったSFは、アンドロイドが感情を獲得し、自分たちの人権をも手に入れる為の戦いという顛末に終始しています。
機械を人化するというのはどういうことか。
人間とはどういうものか。
それらは永遠の課題です。そして人類とアンドロイドの戦いがあり、SFは世界が荒廃するというディストピアから脱することができていません。
『ブレードランナー』シリーズ、そして『Blade Runner 2099(原題)』は、それを凌駕しようとしているのでしょうか。
期待しすぎかな。
でもその方向へ繋がると思えばしっくりくるんですけどね。
わかりませんけど。