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三木清「人生論ノート:死について」読んだ

 三木清先生の「人生論ノート」が図書館でなかなか借りられなかった。昨日やっと、それが収録されている「三木清全集第1巻」手に入ったので少し読んでみました。
 そもそも私がこの本を知ったのは、アドラー心理学の岸見一郎先生はじめ様々な方の著書に引用されているからです。心を研究されている方ならば通る道なのだろうなと思い図書館で探していたのですが、長い間借りられていてなかなか私の番が巡ってきませんでした。この本は昭和13年から昭和16年にかけて「文學会」という雑誌に連載されていた22篇のエッセイをまとめて出版されたものだそうです。昭和16年といえば戦争に突入する1941年。全集のあとがきによるとそんな時代でも重版され、多くの方に愛読されていたそうです。年代が経っているだけあって馴染みのない言葉遣いも多く、意味を正確に汲み取れているかは定かではありませんが、印象に残った部分を抜粋して考察したので覚書とします。

假(かり)に誰も死なないものとする。さうすれば、俺だけは死んで見せるぞといって死を企てる者がきつと出てくるに違ひないと思ふ。人間の虚栄心は死をも対象とすることができるまでに大きい。そのような人間が虚栄的であることは何人も直ちに理解して嘲笑するであらう。しかるに世の中にはこれに劣らぬ虚栄の出来事が多いことに人は容易に気づかないのである。

三木清「三木清全集 第1巻」

死という誰も経験がないものについて考える時は、それが無かった場合どうだろうという仮定を置くことが有効でしょう。なんだか星新一さんのショートショートにこんな話がありそうです。俺だけは死んで見せるぞといって首吊りや事故など様々な方法を試すが死ねず、最後は人口爆発した地球で…といったような。また、落語にはあの世を扱ったお噺はいくつもあります。「お血脈」「黄金餅」「地獄百景亡者戯」…。いづれも「試しに死んでみるか」というような勢いで人が死ぬ、もしくは死んだ人を扱う。創作だからなのかもしれませんし、そのくらいの軽い感覚で考えないとやってられないくらい人の死が身近だったのかもしれません。現代において名も顔も知らない人の死をニュースなどでみた時には、このくらいの距離感で捉えているのかもしれません。死というものの捉え方は人や時代によって様々だと思います。

 私にとって死とはなんなのか。私はまだ寿命を迎えるほど歳をとっていませんし、現在は病気も怪我もなく健康なので死を身近に感じることはあまりありません。強いていえば、高校の時に内臓の奇形が原因で急性膵炎を発症したことと、研究で山の中で調査をしていた時にツキノワグマに遭遇したことくらいでしょうか。その時は入院してから数日やクマと見つめあっている数秒間は「自分の生きてきた時間が幸せであった」と自分に言い聞かせていました。しかしそんなことは喉元が過ぎれば忘れてしまうものです。
 どちらかといえば身近な人や生き物が亡くなった時の方が強く印象に残っています。同級生の死、後輩の死は彼らが生きていたであろう時間のことを考え始めると心が苦しくなる感覚があります。昔の人が考えた落語のような飄々とした死生観は私にはあまり無さそうです。

本の内容とは大きく外れてしまいますが、なんとなく思ったことを考えた瞬間にそのまま書いていくのも悪くないかなと思います。三木清先生の「人生論ノート」にはこのほかにも「〇〇について」というテーマで章立てがなされているので、私も便乗してそのテーマについて考えていこうかなと思った本でした。

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