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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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#徳川家康

#29 三嶋明神と三島宿

三嶋明神の門前町 三島は三嶋大社の門前町として古くから栄え、伊豆の中心であった町だ。東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する交通の要衝であった三島は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点でもあった。 三嶋大社は、伊豆半島の基部、三島市中心部に鎮座する。 境内入り口の大鳥居前を東西に東海道、南に下田街道が走る。 周辺は伊豆国の国府があった地。 中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝を始めとする多くの武家からの崇敬を集めたそうだ。 江戸時代の三島は江戸幕府の直

#28 なぜ箱根は宿場設置が遅れたのか?

街道付け替え 江戸時代以前の中世の東海道では、箱根山を越えるルートは現在の箱根八里ではなく、「湯坂路(ゆさかじ)」と呼ばれる尾根伝いの道が使われていたそうだ。 このルートで京から東国に下る場合、箱根峠を越え芦ノ湖を経て、鷹巣山、浅間山、湯坂山の尾根を伝って箱根湯本へ下る山越えのコースだったそうだ。 江戸時代の東海道の道筋は尾根筋から谷筋に経路が変更され、東南側の須雲川の谷間に新しい東海道を築かれた。 箱根路のルート設定の意味合いについては、険しい箱根山を江戸防衛の要として

#27 江戸時代の小田原宿

江戸時代の小田原  江戸時代になると小田原は、譜代大名の大久保氏、阿部氏、稲葉氏などが治める小田原藩の城下町として栄えた。  小田原宿は、東海道五十三次の9番目の宿場として、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として設置された。日本橋を出立した人の多くが2泊目の宿として利用した宿場でもある。  理由は、天下の剣「箱根山」を越えるためには、小田原で泊まらざるを得なかったのである。また江戸からの距離も20里27町(81.5km)あり、1

#25 大磯宿と梅沢の立場

大磯宿  東海道五十三次の8番目の宿場である大磯宿は、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として設置された。  日本橋からは、16里27町(65.8㎞)の距離にあたる。  江戸寄りの平塚宿との間は27町(2.9㎞)と短く、一方、小田原宿との間は、4里(15.7㎞)と比較的長く、その間に徒歩渡しで有名な酒匂川があった。  宿場は江戸方より街道に沿って、山王町、神明町、北本町、南本町、茶屋町(石船町)、南台町の6町で構成されており、範囲

#24 馬入渡しと平塚宿

牡丹餅立場と七里役所 藤沢宿と平塚宿の間には「立場(たてば)」と呼ばれる「茶屋」や「売店」などの休憩施設が4つあったそうだ。 その中の一つの牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)は藤沢宿から一里半(約5.9km)の距離にあった立場。牡丹餅が名物だったとか。 宿場から1時間半あまり歩いたところで海を眺めながら一休みするにはちょうど良い位置にあったのだろう。 牡丹餅立場には、紀伊藩の七里役所もあったらしい。 七里役所とは江戸時代の大名が設置した飛脚の一つで、七里飛脚の継立場の役所のこと。

#23 藤沢宿と南湖の茶屋町

門前町だった藤沢宿  東海道五十三次の6番目の宿場である藤沢宿は、東海道整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄えた町だった。  八王子道、鎌倉道などの街道との分岐点に位置し、1555年(弘治元年)に小田原北条氏が藤沢大鋸町に伝馬が置が置かれるなど中世から交通上の要衝だったが、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として整備された。  宿場は境川東岸の鎌倉郡大鋸町と同西岸の高座郡の大久保町、坂戸町の3町で構成されており、宿場の範

#22 戸塚宿と立場

相模国東端の宿場町、戸塚  東海道五十三次の5番目の宿場である戸塚宿は、相模国鎌倉郡(現在の横浜市戸塚区)に置かれた宿場町で、東海道の中では相模国東端の宿場町だ。  1601年(慶長6年)東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に戸塚宿は宿場町として指定されていなかったが、保土ヶ谷~藤沢間の距離が4里9町(約17.2km)と長かったため、慶長9年(1604)に戸塚宿が正式な宿場として認められた。  日本橋から10里半(41.2km)の距離にあり、保土ヶ谷宿からは2里9町(8.8

#21 なぜ保土ヶ谷宿は宿場移転したのか?

 歌川広重の東海道五十三次の浮世絵「保土ヶ谷 新町橋」では、帷子(かたびら)川に架かる帷子橋(新町橋)が描かれている。  新町橋を渡ると、保土ヶ谷宿が始まる。 袖ヶ浦と帷子河岸  江戸時代始めまでは、袖ヶ浦と呼ばれた入江が現在の横浜市保土ケ谷区東端部まで湾入しており、東海道沿いの海岸の中でも最も美しい風景の一つとされていた。  天王町のあたりが帷子川の河口で「帷子町河岸」と呼ばれた荷揚げ場へと帆掛け船が出入りする風景があったという。  帷子河岸では、帷子川流域から集められ

#20 袖ケ浦と神奈川宿

 海沿いの街道に軒を並べる茶屋や料理屋。  袖ヶ浦の海には帆船が何艘も漂い、舟運が盛んな様子が描かれている。歌川広重の東海道五拾三次の浮世絵「神奈川 台ノ景」では、台町から眺める袖ケ浦の景観と湊町の側面を併せ持つ神奈川宿が巧みに描かれている。 神奈川湊  神奈川湊は中世から東京湾内海交通の拠点の一つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展したとされている。  神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことだ。

#19 なぜ川崎宿が宿場になったのか?

宿場設置の経緯  2023年は川崎宿起立から400年にあたり、旧川崎宿の通りには、400年を祝う旗が設置されている。  東海道五十三次の2番目の宿場である川崎宿は、東海道の宿駅制開始から遅れること22年、1623年(元和9年)、武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に設置された。  品川宿・神奈川宿間の伝馬継立は往復十里(約39km)と長く、両宿の伝馬百姓の負担が過重のため、両宿が幕府に請願して両宿の中間に位置する多摩川の右岸「川崎」に設置されたという。  つま

#18 なぜ街道沿いに刑場が置かれたのか?

見せしめの場  江戸時代、江戸周辺には南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、北に奥州街道・日光街道沿いの小塚原刑場(東京都荒川区南千住2丁目)、西に甲州街道沿いの大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場といわれた。  幕末には、中山道沿いに一時的に板橋刑場(北区滝野川のJR板橋駅北付近)が置かれ近藤勇などが処刑されたが、板橋刑場は新政府軍がたまたま処刑に使った場所で、正式な刑場ではなかったようだ。  江戸時代の刑場は、江戸に入る人たち、特

#16 なぜ旅立ちは「お江戸日本橋七ツ立ち」だったのか?

江戸時代の時刻制度は不定時法  江戸時代の日本では、不定時法と呼ばれる時刻制度が使われていた。不定時法では1日を昼と夜に分けてそれぞれを6等分にし、その一つの長さを1刻(いっとき)と呼んでいた。  平安時代の延喜式では、子と午の刻(12時)には九つ、丑と未の刻(2時)には八つ、寅と申の刻(4時)には七つ、卯と酉の刻(6時)には六つ、辰と戌の刻(8時)には五つ、巳と亥の刻(10時)には四つ太鼓を鳴らすと決められていたそうだ。  ところで、時刻の基準となる明け六つと暮れ六つは

#15 なぜ日本橋周辺に河岸が集まったのか

日本橋界隈と舟運  陸運と舟運の要衝である日本橋及び周辺の河岸は、物資が集まる物流の集積地であり、人の往来で賑わったという。  歌川広重の「江戸名所四十八景  日本橋魚市」などの浮世絵でも日本橋川沿いの魚河岸の賑わいと日本橋を渡る人の多さが描かれている。  日本橋から江戸橋にかけての北岸には魚河岸があり、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚の荷揚げが活発に行われた。  魚河岸の始まりは、1610年(慶長15年)頃、摂州西成郡佃村から移り住んだ森孫右衛門の次男九左衛門が、

#14なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?(その2) 

幕府の金銀山の統轄と交通網整備  金山、銀山といった鉱物を産出する山は、為政者から重要視されてきた場所だ。  幕府を開いた家康は、佐渡、土肥(伊豆)、石見、生野(但馬)、足尾などの鉱山資源地の支配力を強化するために、関ヶ原以降、直轄地として管理を開始した。  佐渡金山は、1601年(慶長6年)に徳川の直轄地として組み込まれ、大久保長安が送り込まれた。同年、北山で金脈が発見されたことで、佐渡金山は江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。17世紀前半は多く産出されたとい