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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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2023年2月の記事一覧

#25 大磯宿と梅沢の立場

大磯宿  東海道五十三次の8番目の宿場である大磯宿は、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として設置された。  日本橋からは、16里27町(65.8㎞)の距離にあたる。  江戸寄りの平塚宿との間は27町(2.9㎞)と短く、一方、小田原宿との間は、4里(15.7㎞)と比較的長く、その間に徒歩渡しで有名な酒匂川があった。  宿場は江戸方より街道に沿って、山王町、神明町、北本町、南本町、茶屋町(石船町)、南台町の6町で構成されており、範囲

【歴史小話】蕎麦とビッグマックで比較する江戸と東京の物価

先日、京都に行った際に学生時代から通い続けているラーメン屋さんに久しぶりに行った。 注文した品は40年近く前から変わることなく、今回も同じものを頼んだ。 歳のせいか若干胃もたれを感じつつ・・・。 驚いたのは値段が1.2倍以上に上がっていたこと。 注文した品が千円を超える日が来るとは思ってもみなかった。 給与水準が上がっていないので物価上昇はあまり意識して来なかった訳だが、身近な外食品の価格が上昇すると、さすがに物価上昇を身近に感じる。 江戸時代の蕎麦の価格 ところで、江

#24 馬入渡しと平塚宿

牡丹餅立場と七里役所 藤沢宿と平塚宿の間には「立場(たてば)」と呼ばれる「茶屋」や「売店」などの休憩施設が4つあったそうだ。 その中の一つの牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)は藤沢宿から一里半(約5.9km)の距離にあった立場。牡丹餅が名物だったとか。 宿場から1時間半あまり歩いたところで海を眺めながら一休みするにはちょうど良い位置にあったのだろう。 牡丹餅立場には、紀伊藩の七里役所もあったらしい。 七里役所とは江戸時代の大名が設置した飛脚の一つで、七里飛脚の継立場の役所のこと。

【江戸の風景】町駕籠と道中駕籠 ー江戸のタクシー

町駕籠 江戸時代、町人の生活が次第に豊かになってくると、江戸市中の町人も駕籠を利用したいという要求が次第に高まるようになった。 1675年(延宝3年)、幕府は町人が駕籠を使用することを容認し、駕籠300挺に限っての営業許可が与えられた。 町人が乗る駕籠は町駕籠と呼ばれた(武家が私用で乗ることもあったらしいが)。 担ぎ手は駕籠舁(かごかき)といい、駕籠屋に詰めて乗客を運搬した。 江戸市中で使われた町駕籠には4種類あった。 ①引戸がある「宝泉寺(法仙寺)駕籠」 ②左右に畳表

#23 藤沢宿と南湖の茶屋町

門前町だった藤沢宿  東海道五十三次の6番目の宿場である藤沢宿は、東海道整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄えた町だった。  八王子道、鎌倉道などの街道との分岐点に位置し、1555年(弘治元年)に小田原北条氏が藤沢大鋸町に伝馬が置が置かれるなど中世から交通上の要衝だったが、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として整備された。  宿場は境川東岸の鎌倉郡大鋸町と同西岸の高座郡の大久保町、坂戸町の3町で構成されており、宿場の範

#22 戸塚宿と立場

相模国東端の宿場町、戸塚  東海道五十三次の5番目の宿場である戸塚宿は、相模国鎌倉郡(現在の横浜市戸塚区)に置かれた宿場町で、東海道の中では相模国東端の宿場町だ。  1601年(慶長6年)東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に戸塚宿は宿場町として指定されていなかったが、保土ヶ谷~藤沢間の距離が4里9町(約17.2km)と長かったため、慶長9年(1604)に戸塚宿が正式な宿場として認められた。  日本橋から10里半(41.2km)の距離にあり、保土ヶ谷宿からは2里9町(8.8

#21 なぜ保土ヶ谷宿は宿場移転したのか?

 歌川広重の東海道五十三次の浮世絵「保土ヶ谷 新町橋」では、帷子(かたびら)川に架かる帷子橋(新町橋)が描かれている。  新町橋を渡ると、保土ヶ谷宿が始まる。 袖ヶ浦と帷子河岸  江戸時代始めまでは、袖ヶ浦と呼ばれた入江が現在の横浜市保土ケ谷区東端部まで湾入しており、東海道沿いの海岸の中でも最も美しい風景の一つとされていた。  天王町のあたりが帷子川の河口で「帷子町河岸」と呼ばれた荷揚げ場へと帆掛け船が出入りする風景があったという。  帷子河岸では、帷子川流域から集められ

#20 袖ケ浦と神奈川宿

 海沿いの街道に軒を並べる茶屋や料理屋。  袖ヶ浦の海には帆船が何艘も漂い、舟運が盛んな様子が描かれている。歌川広重の東海道五拾三次の浮世絵「神奈川 台ノ景」では、台町から眺める袖ケ浦の景観と湊町の側面を併せ持つ神奈川宿が巧みに描かれている。 神奈川湊  神奈川湊は中世から東京湾内海交通の拠点の一つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展したとされている。  神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことだ。

#19 なぜ川崎宿が宿場になったのか?

宿場設置の経緯  2023年は川崎宿起立から400年にあたり、旧川崎宿の通りには、400年を祝う旗が設置されている。  東海道五十三次の2番目の宿場である川崎宿は、東海道の宿駅制開始から遅れること22年、1623年(元和9年)、武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に設置された。  品川宿・神奈川宿間の伝馬継立は往復十里(約39km)と長く、両宿の伝馬百姓の負担が過重のため、両宿が幕府に請願して両宿の中間に位置する多摩川の右岸「川崎」に設置されたという。  つま