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私がたかこだ。

誰しも、一度は言ってみたいせりふのひとつや二つはあるだろう。

あるよね?
私がセリフオタクだからじゃないよね?
ありますよね?


ともかく、たとえば私は成田美名子の「アレクサンドライト」を読んで以来、

「あなたの前で三十になりたくなかったのよ」

このせりふにしびれっぱなしである。
主人公アレクがかつてつきあっていた、とある年上の女性がコーヒーを飲みながら明かした心中。
細かいエピソードはどうやら意図的に省かれたようなのだが、アレクが寝ている隙にこの彼女さんはひっそり彼のもとを去ってしまったらしい。メモひとつ残さず、ただアレクのドレッドの前髪を一房、切り取って。
ドレッドの件に関してはやや解せない気もする。アレクいわく「それからしばらくは恋をしようとして誰かを見ても中途半端な前髪が邪魔をした」(大意)らしいので未練たっぷりだったろう。彼女さんもそれを狙ったのだろうけど、するとこのせりふがちょっと弱くなる印象もある。ぜんたい潔いのかそうでもないのか。

「あなたの前で三十になりたくなかったのよ」

こう改めて書くと、つまり彼女さんは二十代ぎりぎりだったわけで。若いわけで。でも彼女にとっては三十代ってきっと老いのはじまりだったわけで。そう感じさせるくらいにはアレクは年下だったはずで。実際、再会した時点でアレクは大学一年。交際していたのが三年ぐらい前でも推定十五歳と二十九歳。有罪ですね。
有罪だけどこのせりふはいい。
なんで黙って姿を消したの、という問いにこの答え。

「あなたの前で三十になりたくなかったのよ」

ちょっとはにかみながら言っているところがまたいい。チャーミングですらある。
一応、舞台はアメリカなので本音と建前の差はさほどでもなかろうし(あくまでイメージ)真相は別にあるとしても、このごまかし方は実にいい。

「あなたの前で三十になりたくなかったのよ」

私もこのせりふ、三十になる直前に言いたい!

二十九歳のとき恋人がいませんでした。

もう一生、言う機会を持てない。四十とか五十じゃだめなのよ。ましてや六十とかそんなこと冗談でも言ってられないでしょうが。だいたい今さらすぎる。四十以上にこのせりふはただただ痛ましいだけ。無理。


このせりふの他だと、

「民衆はゴッホを理解せずキリストを十字架にかけたのよ」

かっこいい。かっこよすぎる。言ってみたい。
曽田正人のバレエマンガ「昴」で、天才バレリーナのプリシラが放った一言。ゴッホで合ってるかな。ピカソだったかも。というか他のマンガや小説やゲームで誰かしら言ってそうだけどそれはそれ。これはこれ。
ちょっと細かいことは忘れたが、ヒロインの昴とはからずも「ボレロ」合戦になったくだりでプリシラが言うのである。

「民衆はゴッホを理解せずキリストを十字架にかけたのよ」

バレエは芸術であると同時に大衆のためのエンターテイメントでありパフォーマンスだが、どちらがどれだけ売れたとか、より刺激的かとか衝撃的かとか、そもそもの知名度からしてどうのとか、どれも些末な話題に過ぎない。

「民衆はゴッホを理解せずキリストを十字架にかけたのよ」

全身全霊を傾けてやわらかく言い換えれば『星の王子さま』の「大切なものは目にみえない」と意味は同じだろう。「たいていのひと(民衆)は大切なものも見えるはずの目を持っていない」といったところだろうか。たまにいるので、見えてるひと。
なんとなくいろいろ考えていて、それがどうにも伝わらないのは百も承知。自分の表現力や伝達力が未熟だからでもあるけど、受け手も大概なのよねって実は思っていなくもない。
そういうときに、是非とも言っておしまいになりたい。

「民衆はゴッホを理解せずキリストを十字架にかけたのよ」

天才と聖人は孤独なのである。
とか強がったりしてみたいけどまだまだその境地ではない。だって言ったら怒られちゃうと思ってるから。そういう遠慮があるうちは、これもプリシラのせりふ「私はまだ青い……ッ」と唇をかみしめておこう。


ほかにも言ってみたせりふはたくさんあるのだが、そもそも現実(三次元)ではどうにもチャンスがない。
もったいないなあ。と常日頃から虎視眈々と目を細めているのも疲れて気を抜いていたら、ふいにひとつ、かなった。

「もしもし、こちら、たかこ様のお電話番号でお間違いなかったでしょうか」

普段、知らない番号からの電話には出ないことにしている。
でも今日は郵便局で通称名の登録を済ませたこともあって、しかもそれがちょっと職員さんがたのお手をわずらわせる始末になってしまったものだから、市外局番だけ確認してから念のためにと出てみた。
たかこ宛ての電話はこれがはじめてである。ということに今、気づいた。
そのときは一瞬きょとんとした。次にあっとなり、あたふたとスマホを持ってこくこくうなずいていた。

「はい、私がたかこです」

ガンダムシリーズには名せりふが多いが、今世紀に入ってからもっとも有名なせりふのひとつがこれだろう。
「俺がガンダムだ」

「私がたかこだ」
かなった、と書いたわりには、言ってみたいせりふでもなかったのだが、何だかんだやっぱりこれはいいね。とてもいい。
「俺はガンダムだ」でもなく「ガンダムは俺だ」でもなく「俺がガンダムだ」
強い意志を感じる。数年後に思い出してシャワーの中で叫ぶような軽率さはみじんもない。
そういえば中学生ぐらいのころ「恋人はサンタクロース」か「恋人がサンタクロース」かで数人の友人と対立したことがあった。
歌詞から推察すれば「あなたのサンタクロースはサンタクロースかもしれないけど、お姉さん(私)のサンタクロースは恋人のあのひとなのよ」ってことだし自然と後者とわかりそうなものだが、同級生はユーミンを理解せず中三の私を十字架にかけたのよ。

通称名たかこを名乗るようになった日からまだ十日、それでもたかこにとってはじめてのあれこれが続いているが、ついに初お電話。
いつかこの新鮮さがうすれて惰性でも何でもなく「はい、たかこです」と手癖のように応じてしまうんだろうなあ。
「私がたかこだ」と、なかば訴えるようにして自己主張するのも今のうちだけ。
くだんのガンダムパイロット、刹那・F・セイエイ(F・セイエイは from 聖なる永遠。これには改名できなさそう)は一話目以降も何度か「俺がガンダムだ」と言っているし、無言の自問自答の果て「俺はガンダムになれない」と迷う季節へと成長した挙げ句、ついには仲間たちに「俺が、僕が、俺たちがガンダムだ」とまで断言させるレベルに達するんだから、たいしたものだよなあ。
ネタにされがちなせりふだが、やはり名せりふである。
「俺がガンダムだ」

「私がたかこだ」も、七割ぐらいの人類はそうそうこの心境で口にすることもなさそうなので、私は恵まれている。
五十になるのを恥じて愛するひとから離れる弱さには抗い、キリストを十字架からひきずりおろそうとする不遜な愚かさを備えた未来に向かえているようだ。




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