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僕はひげを剃る時、鏡を見ずに、ルーティーン化した動作と、剃り残しの感覚を頼っています。自分の顔の表面を脳の中で捉え、手の感覚により、剃刀の刃の向きと、ひげの生え方を計算し、剃っていきます。

それら全てはルーティーン化しているので、苦にならないし、むしろ、それだけに集中できるので、「ただそれに集中する」というマインドフルネス的な良い時間になっています。

しかし、もし、僕が自分の顔の表面を脳の中で捉えることができなければ、もし、手の感覚が不明瞭で不確かだったら、おそらく僕の顔は傷だらけだと思いますし、お風呂に入るたびに、血だらけになってしまうことでしょう。

つまり、何が言いたいかと言うと、脳の中で具現化すること(想像力)や手の感覚って、超大事だと思うのです。

さておき、僕が住んでいる福岡県では緊急事態宣言が出されました。その中で僕が思うのは、これによって「子どもが何かを体験する機会を奪うことは絶対に避けたい」ということです。

子どもには体験が必要だ

おそらく僕がひげを剃ることが出来るのは、今までの僕が色んなものを触ったり、壊したり、怪我したりした体験があるからだと思います。人は何十年もかけて、あらゆる感覚のデータベースを作っています。それは喜びや悲しみ、怒りや楽しみのような感情も同じです。

それらはいつかアウトプットされます。芸術家であれば作品として、陶芸家であれば陶器として、料理人であれば料理として、小説家であれば物語として、それらは表現されます。

僕らが物理的に存在する限り、物理的な感覚に基づき、生活をし、表現をします。一方で、昨今では、物理的でないものが増え、今後もめちゃくちゃ増えてくるはずです。

そんな中での緊急事態宣言が、子どもたちにとって、感覚を養うための体験の機会を奪うことに繋がらないようにしなければならないのでは、と僕は心配しています。

将来的に子どもには体験は必要か?

物理的な感覚を知らなくても生きていけるし、ものは作れます。例えば、3Dプリンターがあれば、物理的に存在する物体をそのまま表現することが可能です。

物体の形を数値に変換し、3Dプリンターで再現すれば、何でも作ることが出来ます。技術革新が進めば、人が作った物以上に精巧なものを作ることが今まで以上に出来るようになるでしょう。

3Dプリンターvs人間

3Dプリンターと人間が同じ物体を作ったとして、おそらく見分けがつかないと思います。どちらが良いか、悪いか、ではなく、どちらに価値があるとか、無いとかでもありません。

しかし、形は一緒でも、その物体が持つ情報量は人間が作った方が多いのでは僕は考えます。上述したように、人間の脳は、膨大な量のデータベースを蓄積し、アウトプットしているからです。

この膨大な量のデータベースが人間を人間たらしめるのではないかと僕は思ってます。このデータベースに足りないものがあれば、それはアウトプットすることができません。

将来、データベースに情報が無いため、アウトプット出来ないことことが無いようにどんな時でも、子どもたちには何かを体験してもらいたいと思う今日このごろです。

いつも読んで頂き、ありがとうございます。またよろしくお願いします。

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