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―それ以来、僕は「人助け」することをやめた。

―いまから話すことは、とある人間の、話すのも恥ずかしい、いや、できることなら誰にも知られたくない、墓場にまで持っていきたい昔話と、その人間が今どうしているのか、という話である。
秋か、もしくは初冬の夜長か、そういう時の暇つぶしくらいで聞いていってもらえればと思う。


そいつは、昔から困っている人を手助けするのが好きだった。

大学の同期が課題で分からないところがあれば、進んで自分が分かっている箇所を教えてあげた。
バイト先の同級生が仕事を抱え込んでしまうところを見ると、積極的に手伝い、後輩を育てて少しでも負担を減らそうとした。

働き始めるようになってもそれらは変わらず、大変そうな仕事があれば助け舟を出し、「これはよくない」と思ったら意見を述べ、同僚から分からないことを質問されると喜んで答えた。
プライベートの知人でも、困っている様子が見えると「できることがあれば言ってくださいね」と声をかけたり、悩みがあれば相談を聞いたりもした。

…ここまで聞くと、本当に「いいヤツ」だ。
実際、そいつは周囲からも「いい人ですね」「優しい人ですね」とよく言われていた。

でも、実際に想像してみると分かるが、その光景ははっきり言って不気味だ。
度を超えたその行動は、残念ながら無理しているようにしか見えない。
そいつも例外ではなく、完全に道を間違えていたのだ。

それを証明するかのように、ある年、そいつに転機が2つ、立て続けに訪れた。

1つ目は、長らく一緒に暮らし、結婚も考えていた相手から、突然別れを切り出されたこと。
付き合い始める前からお互いを支え合い、一生のパートナーだと信じて疑わなかった女性。
それがまあ、あっさりと新しい相手を見つけて出て行ってしまったのである。

そこに追い討ちをかけたのが、一緒に仕事をしていた人々との関係の終了。
誰よりも真剣に仕事へ取り組んでいたはずなのに、次から次へと「あなたとは、もうおしまい」と言われてしまう。

なぜだ。いったい、自分が何をしたというのか。
そいつは、心身ともにボロボロになりながら、来る日も来る日も自分に問いただした。
…とはいうものの、傍から見ればそんなのは分かりきった話である。
「自分が何をしたというのか」という発想も、心身ともにボロボロになったというのも、同情の余地などないくらいに。

はっきり言おう。そいつは、自分の承認欲求のために、周りを利用していたのだ。
自分で自分を承認することができないから、周りの役に立とうと行動し、そして周囲から評価を集めることによって、その埋め合わせをしていた。
その結果何が起こるかというと、すべての行動が損得勘定に基づく、すなわち打算的なものになるため、期待していた見返りを得られないと、手のひらを返したように相手の揚げ足取りを始める。

だから付き合う相手は、そいつのご機嫌取りに必死だ。
しかも、これまたタチが悪いのが、他人からの評価で承認欲求を満たされることは永遠にない、ということ。
だから周囲は振り回され続け、遅かれ早かれ限界を迎えることとなり、いずれそいつを突き放すようになる。

もちろん、そうなってしまったのは本人だけが悪いわけではないだろう。
一応、そういった性格は生まれ育った環境に大きく影響を受けるとは言われている。
しかし、周りからしたらそんなのは関係ない。いや、正確に言えば「区別がつかない」。
そこに悪意があるのかないのか、真意は本人しか分からず、第三者から見れば同じ「悪人」にしか映らないのだから。

以来、そいつは「人助け」することを、スッパリとやめた。
「○○さんのために」「みんなのために」と考えることも、スッパリとやめた。
誰かが大変そうに見えても、「手伝ってほしい」とお願いされるまで知らん顔。
「こうしたほうがいい」と思っても、意見を求められるまで我関せず。
仕事は頼まれるまで基本待ちの姿勢、完全に面倒くさがり屋全開のスタンス。


こうして、「そいつ」は、今の僕となった。
仕事で成果を出そうとする代わりに、毎週2,500字のラジオドラマ原稿を書き、「文豪」なんてあだ名で呼ばれるようになった。
必要以上に周囲の人たちに干渉しようとする代わりに、最近は音楽に興味を持ち、オカリナの練習を始めるようになった。
誰のためにもなろうとしない。ましてや世のためになろうとなんか、考えるはずもない。
行動基準はただ1つ、「自分の幸せにつながるかどうか」。

こうして文字に起こしたり、話を聞くだけだと、完全にただの自己中。
それでも、自分で言うのもあれだが、「そいつ」に比べれば周囲に悪影響を及ぼすことは減った気はするし、少しだけゆとりができたような気もする。
「そいつ」は完全に害悪でしかなかったし、付き合わせてしまった方々には心から申し訳なく思っている。

正直、今でもたまに「そいつ」が顔を出すときはある。
「〇〇さん大変そう…ちょっとお手伝いしようかな」「この仕事、もっとこうしたほうがいい気がする…意見出そうかな」などなど。

確かに、ちょっと気遣いする分にはいいことだとは思う。
ただ、冷たい言い方に聞こえてしまうが、本当にその人が大変かどうか、本当にその仕事を改善すべきかどうか、それを決めるのは僕ではない。
勝手にこちらで判断して手を差し伸べてしまうのは、申し訳ないが、ただ承認欲求を満たそうとするのが目的なだけの偽善だ。

だから、「そいつ」に耳を貸すわけにはいかない。
「そいつ」が欲求を満たすためだけのゲームからは降りて、自分で自分を幸せにしなければならないのだ。
なぜなら、自分を幸せにするのをやめるという、たったそれだけの行為が、不幸せな人をどんどん増やすから。
残酷だが、それが現実である。

―そんなことを自分に言い聞かせながら、僕は今日もオカリナ片手に、のんきに過ごしている。

サムネイル:acworksさんによる写真ACからの写真

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