小説『無題』~2018年文学フリマ投稿作品~①


No.3


0. プロローグ
その連絡が入ったのは突然だった。いつも通りの会議を経て会議室を出たとき秘書から言われたのだ。
「邦人旅行者が拘束されました」
まったくもってトラブルというのは予期せずして訪れる。にしても今日でなくてもいいのに。ならいつならいいのだ? 明日? それも違う。自分の在任中に起きてほしくないだけだ。誰だって面倒ごとは避けたいだろう。ため息を一つついてからこう言った。
「地下に行こう」

1. 問題
首相官邸の地下には危機管理センターがある。内閣情報集約センターからの速報が内閣危機管理監と総理大臣に連絡される。その報告に基づき,官邸危機管理センターが政府として緊急事態に対応する。
地下へ行くとすでに官邸対策室が設置され,初動措置が始まっていた。管理センターでは職員が慌ただしく情報を収集していた。
センターに入るなり開口一番「何が起きた?」と総理が管理監に尋ねた。
「確認中ですが,邦人1名が旅行中に現地組織に拘束されたようです」
「身元は」
「判明してます」
渡された資料には拘束された人物の名前,現住所,経歴が細かく記されていた。名前は東雲伸一郎。東京都港区在住。都内の工業大学を卒業。院卒で新興のIT企業に就職。プログラミングのSE。犯罪歴もなし。渡航歴もこれまでに数回。いたって平凡な経歴だ。
「なぜ拘束されたのかわかるのか」単純な疑問からこう尋ねた。
「不明です。直近の渡航は中国だそうです。仕事で」
「何の仕事かわかるか」
「上司に聞いてもいまいちはっきりしません。現地企業との提携の一環とかで……」
「ふむ……」今の段階ではそのくらいか。
「彼の身元をもっと掘り下げてみます」
「わかった。何かあれば知らせてくれ。マスコミへは」
「まだ記者会見はしていませんが,いずれ行うことになるかと」
「なら早いほうがいい。わかっていることをすべてリストアップしてくれ。1時間後に開く」
「わかりました」現役時代の癖か。管理監は忠実に答え,部下に指示を出した。

首相が管理センターを出てから1時間半後,記者会見が開かれた。情報は新しい物はなく,氏名と顔写真,勤務先くらいの情報しかなかった。仕方ないのだ。この手の事件ではあちらからのコンタクトが無い限りあまり情報は得られない。地道に探すしかない。
よしんばあったとしてもマスコミへのリリースはこの程度だ。下手に嗅ぎ回られても困る。人質事件。しかも外国で。嫌なことしか思いつかなかった。
「めんどくさいなぁ……」会見を終え執務室にもどるとため息交じりに受話器を取った。電話を一本かけておこう。念のためだ。やれることはやろう。


東雲は暗闇の中で目を覚ました。ここはどこだ?確か商談を終えて日本食レストランで食事をして別れて……その後の記憶がない。必死で思い出そうとしているとドアが開いた。意外にも入ってきたのは日本人だった。「ようやくお目覚めか。よく寝れたか」
状況を理解するには脳が追いついていなかった。突然の拉致にまさかの犯人は日本人。しかも中国で?理解ができなかった。国内でいいだろうに。男は続けてこう言った。「喜べ。また寝れるぞ」
「は?」そう聞き返すのがやっとだった。
「移動だよ」それを最後に東雲は意識を失った。


執務室からかけた電話はアメリカにつながった。時差は考えたがまあ状況が状況だし,向こうのメディアで情報は知っているだろうから話は早いかもしれない。
「やあデレク。ちょっと助けてほしいんだが」突然のホットラインの着信に一つも動揺せず電話の相手はこう答えた。
「なんだね。それを聞いたら日米の貿易問題に進展でもあるのか?」
二言目にはそれか。本来の懸案事項を思い出し,憂鬱な気分になりながらこう答えた。「どれくらい助けてくれるかによるな。中国での邦人拉致についてFBIかCIAに聞いてほしいんだ」
「わかったよ。その代わり次の“ゴルフ”はハンデをくれよ。それで手を打とう」首脳会談の度にゴルフを楽しんでいるのだが,毎回プレーの度に貿易赤字についてイヤミを言ってくるのだ。
「わかったよ。こちらも情報が無いんだ。発生から大分時間が経っている。まだうちは何も把握してない」
「その言葉忘れないぞ。何かわかったらすぐ知らせる」そう言ってホットラインは切れた。
全く……一人の国民にここまでする必要があるのか? そう思いつつ人質の名前,東雲伸一郎には聞き覚えがあった。あれはなんの資料だったか…何か大事な資料だった気がするのだが……毎日の職務に追われて記憶の底に埋もれているのだった。
そのうち思い出すだろう。この時はあまり深く考えていなかった。

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