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【小説】光の三分間と声と言葉の青春⑦「職員室にて」

前回

 会議ほど、この世に不要なものはないと思う。
 教頭に他の先生の前で一年二組の成績の悪さを詰められた。これは流石に堪えた。
 教師は聖職者であるべきというのは分かっているが、キリシタンだった元彼ほど狂信的に学校を愛することはできない。教師になって十五年、私は教師に向いていないんじゃないかと思うときがある。
 大会議室から職員室までの廊下で何人かの生徒に挨拶されたが、ちゃんと笑顔で返せていただろうか。小じわが増えてたまらない。今夜は家で飲もう。

 職員室の扉を開け、私の席に戻ると、採点中のテストの束と一年二組の生徒たちの評定帳簿が無造作に置かれている。慌てて飛び出したので、迂闊にもそのままだった。
 何となく帳簿に目をやると、鷹岡哲仁の一行が他の生徒に比べて酷く空白だった。彼だけ課題を出さないからだ。
 教頭に詰められた内容も、彼がらみだった。一年二組の平均を下げているのは彼だ。素行の悪い他コースとのつながりもある。しかも、彼の家は片親だから経済的にも裕福ではない。だから、進学するとしたら国公立に行くしかない。しかし、今の成績と勉強への意欲では受かるか分からない。もしかしたらこのままいくと大学に行けず、グレて悪い道に進んでしまうかもしれない。特進コースからそんなのを出すなんて、二上高校の沽券と私の評価に関わる。担任として、何とかしなければならない。いや、何とかしてあげなければいけない。
 頭の中に、不安ばかりが浮かぶ。

 帳簿を引き出しにしまう。ふと振り返ると、教頭の顔があった。
 私は思わず椅子から落ちそうになった。
「平井くぅん! 鷹岡さんは大丈夫なのかねぃチミは。彼を更生させてあげるのも大事だが、あまり生徒に厳しくしすぎるんじゃないぞぅ。最近、保護者の目も厳しいし、教育委員会がちゃんとコンプライヤンスを監視しているからねぃ」
 出た、教頭。通称、二枚舌タヌキ。傷口広げ代行。ストレス社会の要因。お前が教員へのコンプライアンス守れ。さっき、生徒の成績についてとやかく言ったうえ、国公立・有名私大の進学率を上げろとまで抜かしたくせに、今度は生徒に厳しくするな言いやがって! しかも、私立で激務のくせに無駄に薄給のくせして! 学校経営ちゃんとできてないんじゃないですかぁ? 後、しゃべり方がムカつくんじゃーい!
「鷹岡さん、平井くんのクラスだったよねぃ! 彼の成績じゃ、大学進学なんてできないんじゃないかねぃ? 結局、転コースさせず、特進コースに残すんでしょぉ?」
「はい、彼が大学進学できるよう、卒業までサポートします」
「おやおやぁ、困ったねぃ。たのむよぉ、平井くぅん」
 あー”ー”ー”‼ ムカつく‼
 私は自席へと戻る教頭の背中を睨む。ともあれ、やっと教頭から解放された。だが、気を緩めると全身の力が抜けて、残りの仕事ができないかもしれないので、意識は冷静を保ったままだ。この調子だと、週末に買いだめておいたチョコが一瞬でなくなりそうである。

「平井先生、お疲れ」
 前の衝立から檜山先生が顔を出した。お互い同学年の特進コース担当ということもあり、何かと付き合いがある。
 先生は今年で四十二歳、五歳の子どもがいるとは思えないほど若々しい顔でニヤついていた。
「鷹岡ですか」
 檜山先生が衝立に顎を乗せて聞いた。
「そうです。件の鷹岡さんです」
「平井先生に誤解されたって泣いてましたよ」
「嘘ですよね」
「本当です」
 私の口から大きなため息が漏れる。
「泣きたいのはこっちです。口酸っぱく言っても勉強の意欲が改善されるわけでもなし。大学進学させるとしても、彼のご実家、働いているのがお母様だけなので、大学進学させるとしたら国公立一択ですよね」
「そうやね。富山大学の夜間でもセンター試験で六割は欲しいけど。後、二年半あるし大丈夫じゃないけ? 受験目前になれば危機感覚えて流石に勉強するやろ」
「檜山先生は楽観的過ぎます。今の学力のまま三年生の一年間で勉強詰め込もうと思っても下地ができていないんじゃ国公立なんて厳しいですよ。AO入試を受けさせようと思っても、彼は成績がいいわけでもないし、かといって飛びぬけた実績があるわけでもないし」
 私の言葉に、檜山先生は自分の顎を細い指でなぞる。

「わかりました、平井先生」
「何がわかったんですか?」
「少し、鷹岡を借りられんけ」
 私が怪訝な顔をすると、檜山先生は説明した。
「私の伝手で詩のボクシングっていう競技があります。今年、地域振興枠で特別に富山県にも団体戦の出場権がもらえることになりまして、めぼしい生徒に声はかけてるんですが、なかなか集まらなくて。参加者が足りないので鷹岡に参加してもらうのはどうかなと。推薦入試の実績にもなりますし」
 なるほど、一理ある。
「今の鷹岡はあまり高校生活が楽しそうじゃないんですよね。何か打ち込めるものが見つかれば、やる気が出て、勉強にも身が入るかもしれんし、どうけ?」
 確かに、彼が友達と楽しくしゃべっているところ見たことがない。いつも一人で教室の机の上で黙々と何か書いている。通称、孤高なる影、ロンリーファントム。
 しかし――。
「大変ありがたい申し出ですが、お断りさせていただきます」
 担任である私が自分の問題を自分で解決しないで他人に任せるのは責任放棄なのではないかと思う。それに、この男に預けるのは何か癪だ。

「なんでけ?」
 檜山先生が意外そうな顔をする。
「詩のボクシング? に出たから勉強にも身が入るって希望的観測でしかないですよね。それに論理が飛躍しすぎています。それが、ディベート部顧問の提案ですか。ここは、地道に分かってもらえるまで鷹岡さんに寄り添って口酸っぱく言っていくしかないんですよ」
 私がそう言うと、檜山先生は周りに声が聞こえないように顔を近づける。
「あまり、大きな声では言えんけど、この詩のボクシングを通した文化教育も、教頭の支持ながやちゃ」
 その瞬間、思わず私の体が震える。
「特進コースの問題児が率先してこういったイベントに参加するのは生徒の勉強に対する姿勢を改善しようとしているアピールにもなるし、一石二鳥やと思うがやけど?」
 確かに、教頭に生徒の学力向上をせっつかれている今、この申し出は魅力的だった。詩のボクシングへの参加で猶予ができれば、話題がそちらに逸れて教頭からの追求も和らぐだろうし、彼が卒業するまで、精神衛生の安全が担保されるに違いない。
「結局、喧嘩の件の疑いは晴れたんだし、鷹岡さんに厳しく言った手前、平井先生も扱いにくいでしょ」
 この男は痛いところをついてくる。どこまでこの男は鷹岡さん周りの情報を調べ上げているのだろうか。あ、そうか、鷹岡さんはディベート部だった。それで……。

「いいんですけど、なぜ鷹岡さんを?」
「私の一組にも問題児がいましてね。そいつと組ませようと思って」
「ああ、松里さんですか」
「そうです、そうです。リョウヘイです」
 一年二組に鷹岡がいるように、一組にも松里涼平という怪物がいる。
「学校にギターを持ってきては、たまに授業を抜け出して屋上で弾いているようなやつです」
通称、黄昏の流れ者、地獄の暴走機関車。何物にも染まらず、自分が気の向いたことをする。私より教師歴が長い檜山先生でさえ、手を焼いている生徒だ。
「変わり者同士、息が合うんじゃないかと思って。どうしても駄目だったら他の生徒を探しますけど」
 檜山先生の説得に、私はついに折れてしまった。
「はぁ、分かりました。檜山先生にお任せします」
 中間テスト前で忙しない職員室を、嫌に真っ赤な夕陽が照らしていた。

次回

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