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名は体を表す(迷惑な話だけど)

「名は体を表す」という表現を知ったのは小学生一年生の頃で、それというのも痛い目を見たからだ。通っていた幼稚園が小学校とは別の学区だったために、僕は一人でいわば「別の所」から小学校に行くことになった。これは軽いジャブ。小学1年生がこの程度の「差異」から一般性を抽出して、「名は体を表すよね」なんて理解できるほど良い頭はしていない。ただ、その「別の所からきた」という事実が、入学直後から重たく僕にのしかかる羽目になった。

友達が一人もいなかったのだ。

しかも具合の悪いことに、今では別の名前に変わっているが、小学校の近くに「べっしょ」なる駅があった。神の配剤を呪うしかない。なぜ俺が住む地域に、「別所」なんて駅があるのだ。いじめの最初の標的になるには、格好の条件だったのだ。母親の趣味で当時ボブカットだった僕は、その見た目の「キモさ」と、他学区から来た転校生的立場、そして何より学校の近くにあった「別所駅」というありがた迷惑な駅名のおかげで、一瞬でクラス内のホモ・サケルに祭り上げられたというわけだ。

「ホモ・サケル」とは、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンが提唱した概念の一つで、共同体内における「聖なる人」(英語では"sacred man")という意味。「なんだ良い意味じゃん」と思われるかもしれないけど、これ、古代ローマの犯罪者に付けられる肩書で、この「ホモ・サケル」は殺害しても罪に問われず、宗教的・社会的な秩序の「外」に存在するものとして、腫れ物のように扱われたというのがアガンベンの言う所。そしてアガンベンが見抜いたのは、この「祝い」と「呪い」の間にいる存在を通じて、社会の姿が露骨に見えるということ。そう、ホモ・サケルとは「一つの価値で律された共同体内とは『別の所』にいる人間」ということだ。

ここでさすがの鈍感な小学1年生の僕も、自分の存在が「彼らとは別の所」にあるらしいと気づいた。そしてある日、体操服をトイレかどこかに捨てられて、仕方がなく図書館で自習していたときのこと(いつでも僕は「別のところ」にしか安息の地を見いだせないらしい!)、「ことわざ辞典」をツラツラと眺めている間に「名は体を表す」と書いてあるのを発見し、「ああ、俺はすでにこの名前において、運命を予定されていたのだなあ・・・」と深く納得した。あれは小学生1年生の春の昼下がりだったと思う。いや、夏の夕方だったか・・・

その後の僕の人生はというと、基本的に常に「別の所」からいろいろなところに流れ着くような人生をたどることになる。中学は中高一貫の私立高校に入るも、併設の高校にはエレベーターで上がらず別の高校にわざわざ受験して入学。大学はようやく普通に入れたと思ったけど、学部を哲学から米文学へと変更。大学院に入るとき、研究対象をエドガー・アラン・ポーからメルヴィルへ変更。大学院在学中に一度退学して別の大学院へ移動。そこからまたもとの大学院へ戻るときに、研究対象と手法をさらに変更。

「同じ所」にとどまることのできない人生だったと、今ようやく思い至る。そしてその運命は最も大きな「別の所」への接続として形を取ることになる。写真がそうだ。

僕は写真のアート的な伝統というものを全く知らない「視覚研究」からカメラにやってきた人間だ。やはりこれまでと同じように、どうやら僕の立場は「別の所」にあるというのを実感しつつある。でもこれまで、その「other-ness」はひどく孤独で、戦うための同志さえ見つけられない、荒野を一人で行くような感覚だったけど、カメラの面白いところは、むしろ今この世界にいる人は、すべてもともとは「別の所」から来た人たちなのではないか、とたまに思えることだった。まるで運命に導かれてこの場所に集ったように、皆、違う背景を背負ってカメラを持つ。写真を撮る。だからこそ、いろんな表現が集う。そうすると、むしろこの「other-ness」というのは、強みに見えてきた。確定した表現の価値の内側にない、外側にある「別のなにか」を引き寄せることのできる強み。

ここに来て「名は体を表した」流れ続ける人生というのも、それほど悪いことでもなかったなと、ようやく幾ばくかの自己肯定感を得る始末だ。遅まきながら。

蛇足だけど、僕の友人の写真家の一人にJason Arneyというやつがいる。めちゃくちゃ上手いんだけど、彼に初めて会ったとき名前を名乗ったら、「どういう意味?」って聞かれたので「Another placeとかthe other placeだよ」って答えたら、"Wow, it means you are "the second place"!?"と、アメリカ人(かどうか知らんけど)らしい切り返しで言われたことがある。それ以来、Jasonaは僕のことを「2位さん、2位さん(the second place)」と呼ぶようになって、縁起悪いからやめろと言ってたのにずっと呼ばれてたら、去年、世界的なフォトコンで2位を取ってしまって、これは果たして運命の祝福なのか呪いだったのか、どっちなんだろうと悩む羽目になった。もし2位さんとか呼ばれてなかったら3位だったかもしれないし、あるいはもしかしたら1位だったかもしれないのだけど、まあ僕はやはりせいぜいthe second placeかなと、名は体を表すなあと、そのときも思ったものだ。NatGeoの2位になったとき、何よりそのことを最初に思った。なんてことだ。

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