これからの新しい価値は「その間」から生まれていく
最近、僕にとって火曜日はなかなか大事な日になっています。一週間の間で見たり聞いたりしたことに、火を焚べる日になっています。Come on, baby, light my fireですね。
火で少し思い出したんですが、Jack Londonという作家の"To Build a Fire"という小説があって、僕はこの小説がすごく好きなんですね。簡単に内容を話すと、極北の酷寒を見誤って、旅人が火を点けられず凍死する話です。それだけ。でもそれだけの話しなのに何度も何度も読んでしまう。確たるストーリーがあるわけでもないのに、繰り返してその文章を読んでしまう。
例えば他にも何度も読む小説として『予告された殺人の記録』だとか『赤き死の仮面』とか『インディアン・キャンプ』とか、中短編の小説はよく読み返します。また、長編でも、部分的に拾い読みをする小説はたくさんあって、おなじみの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の前後とか、コーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』のラスト近くのシーンとか、何度も何度も。ただそこに書いてある文章を味わうためだけに読んでるようなところああります。
「何がそんなに面白いの?」
と聞かれると、なかなか答えるのが難しい。ただ、一つ言えることは、僕はそれらの文章を読む時、これまで読んできたたくさんの小説を同時に読んでいるということです。一つの文章を読んでいる時、頭の中には多分何重もの類似の、あるいはまったく似ていなくても自分の中では必然性のある他の「テクスト」と合わせて読んでいるんです。
それは例えば映画でも同じです。There will be bloodを見ている時、常に頭にはNo countryのことが思い浮かびます。Gravityを見る時、The MartiansやInter Stellarを思い出さずにはいられません。
こうした作品間を横断する性質を、専門的には「インターテクスチュアリティ」とかいいます。日本語で「間テクスト性」。いろんなテクストは、それ一つで編まれたものは何一つとして存在しない。常に、同時代的な、同ジャンル的な、あるいはそれらを飛び越えたなんらかの霊感によってつながってしまった「他のテクスト」からの影響なしには、どのようなテクストも成立し得ないという考え方です。この場合のテクストとは、単に「文字」だけではなく、あらゆる情報のことを指します。
多分僕が今、火曜日の3限目に意識的にこのnoteでやっていることは、これなんです。不断に自分の中に「つながり」を見つけ出すこと。その訓練。文学と写真を基盤にして、そこから何か「つながり」を見いだせないかと模索すること。それは世界に新しい「レイヤー」を切り開く可能性を持っています。
昔は文学研究者だとか映画評論家だとか、そういう「テクスト」に長けた人たちだけが意図的にやっていたことが、今の社会において自然とそういう発想をする人たちが増えてきたことに気が付きます。
例えば「お金2.0」の佐藤さんがやられている「価値評価経済」のような取り組みも、世界にあらたな「レイヤー」を切り開く試みでしょうし、「ポケモンgo」で一気に市民性を獲得したAR技術やVR技術といったデジタル世界における試みも、この世界に別レイヤーを作り出す壮大な試みと見ることが出来ます。
なぜそんなことが急に起こり始めたのかというと、それは当たり前ですが、インターネットという世界そのものが「間テクスト性」の具現化だからです。ハイパーテクストのリンクによってつながるという、この「電脳空間」は、その出来上がりの始まりの時点からして、常に何かとつながることで成立してきた世界でした。
そこでネイティブに生きて来た世代は、自分が他者と何らかの形で常につながっていることを意識して育っています。SNSの登場というのは、その意味で必然でした。最高度に効率化し、可視化した、「僕らの手元にまで来た間テクスト性」こそが、SNSそのものだからです。
というわけで、これ以後の世界における新たな価値の創出は、少ないパイを取り合う形ではなく、何かと何かをつなげることで「別レイヤーがあるんだ」ということを明示できる人たちが作る物やサービスによって切り開かれていくことになるのでしょう。
そして、そういう時代は「もうすぐ来る」ではなく、「とっくに来ている」というのが、一番大事な部分かもしれませんね。
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