写真と文学 第七回 「真実と事実のパッチワーク」
前回、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』を題材に、「真実」とは結局何を指すのかという話を展開した。『姑獲鳥の夏』を引き合いに出したのは、2つの理由がある。1つは「全知全能の探偵による断罪」という神聖不可侵な探偵小説のプロットそのものを転覆してその後の多くの探偵小説の流れを変えてしまったこと。真実を人間がうまく把握できない以上、「断罪」など一体誰ができるのか、京極夏彦以後の探偵たちは、本質的な人間の限界を意識せざるをえなくなる(あるいは人間としての倫理自体を超越するような探偵が増え、セカイ系と呼ばれる小説テーマへと合流していく)。
そして京極夏彦に言及したもう1つの理由は、出版されたタイミングが問題だった。1994年。バブル経済が弾け、戦後から間もなく半世紀という時期。ポストモダンと呼ばれる思想運動によって真理の持つ権威に亀裂が入ったことが、探偵小説という極めて大衆的な形式を通じて、本当に我々のような庶民にも肌感覚で感じられるようになったのが、『姑獲鳥の夏』が出た1994年という時代だった。そして、幾多の小説が開いた亀裂がそのまま世界へと漏れ出たかのように日本自体も激動したあの1995年がやってくる。戦後半世紀をまるで呪うかのごとく、阪神淡路大震災が年初に発生し、そのたった2カ月後、世界を震撼させた地下鉄サリン事件が起きた。
そうした時代状況の中で文学も大きく影響を受けた。それまで曲がりなりにも通用した「真理」や「正義」に代替する「新しい物語」の模索が始まる。探偵小説は、社会不安と連動する形でさらにグロテスクに進化していく。京極夏彦が開いた亀裂の中には、陰陽師さえ気づかぬ怪物たちが潜んでいたのだ。現代の日本で行われた犯罪の犯人がなぜか「卑弥呼」であると見抜く探偵小説や、間違いでもなんでもなく同じ人物が「2回殺される」探偵小説、トリックの根幹が「バックします」を「ガッツ石松」と聞き違えただけの探偵小説など、読後に本を叩きつけたくなるような、しかしその衝動の後に妙に背筋が寒くなる本質に触れたような、奇矯な小説群が大量に作られることになった。私はそれを多感な高校時代から、すべてに疲れ始める大学院生頃まで貪り読むことになったのだが、そんないびつな熱量が冷め始めた頃に1つの小説を手に取る。湊かなえの『告白』という小説だ。
松たか子主演で映画化されたので、内容はご存知の方も多いと思うが、簡単にあらすじを説明すると、主人公である女教師による復讐劇と要約できる。自分の教え子の中学生たちに娘を殺された女教師が、その真相を暴くと同時に、個人的な制裁を中学生たちに加える。陰惨で救いようのないプロットラインに加えて、登場人物の多くに対する、作者湊かなえの突き放すような描写が相まって、小説は爆発的にヒットした。
この小説は単純に非常に良く書けていて面白いのだが、私が今回この小説を取り上げるのは、前回のテーマである「真実というものが持つ不確実性」という話をさらに補う要素を持っていると感じるからだ。京極夏彦が提示したのは、人間には「真理」も「事実」も、実際にはうまく把握できないということだった。湊かなえが描き出すのは、それを受け取る社会の姿を、さらにグロテスクに喜劇化したものだった。つまり、真実を人間がうまく把握できないのだとすれば、人間が集まって構成される社会が「真実」と見なしているものは、せいぜい「思い込み」のパッチワークに過ぎないということだ。小説の中に、犯人の1人である少年が、犯罪の動機を語る場面がある。そこで描かれるのは、社会によって描かれる犯人像や動機など、所詮は陳腐なまがい物でしかないという認識だ。
「この前代未聞の少年犯罪に、テレビ局は食いつくだろうか。マスコミは大騒ぎするだろうか。そうなると、自分はどのような人間として扱われるだろうか。「心の闇」などという陳腐な言葉を使い、ありきたりな想像を語られるくらいなら、このウェブサイトをそのまま公表して欲しい。」
―湊かなえ『告白』双葉社、2010年、P.232
中学生にこれを語らせる、冷徹なまでの世界感覚。おそらく湊かなえが見る世界、見せようとする世界には、探偵の居所はどこにもない。パッチワークの一部を「赤」と見抜いたところで、それは全体を構成する単なる1つの部品に過ぎない。人間が、あるいはこれまで探偵たちが必死に見出そうとした「真実」も「事実」も、せいぜい広大な織物の一部分を継ぎ接ぎするあて布に過ぎないのだ。それも使い古されれば捨てられる。「真実」の物語が維持されるかどうかは、全体との連動とバランスの問題に過ぎない。
写真もまた、1枚で構成されているように見える芸術形式だが、デジタル現像が学生レベルにまで浸透した現在においては、もはやパッチワークであることは多くの人が実感しているはずだ。例えばPhotoshopのレイヤー構造で作り上げられる画は、一枚の写真データが持っているダイナミックレンジの制限を軽々と突破する。ほんの少し露出ブレンドを学ぶだけで、「人間の見ているダイナミックレンジに近い像」を作り上げることができる。優秀な人間の目は、カメラ以上に世界を生き生きと見ている、その像に近づくのだ。だが人間の目に近いはずのその「像」は、複数のシャッターを切って作られる、いわば演出された真実にすぎない。その「演出された真実」は、「1つのRAWデータ」という古典的なゲームのルール自体を撤廃して、原理上あらゆる光と闇を1つの写真の上に投影できる、いわば真実と事実のパッチワークなのだ。
誤解しないでほしいのは、「だから合成はだめだ」「Photoshopは反則だ」と言いたいのではない。人間自体が、真理も事実も、自分の見たいようにしか見ていないものだ。カメラでさえ、機械や撮影手法の制約の中で真実も事実も取り逃してしまう。であれば、写真を世の中に提起することが意味するのは、1枚からの現像だろうと、Photoshopで作り上げた画だろうと、撮って出しだろうとゴリゴリの現像だろうと、それらすべて「私が見た、私の真実」を世界に対して、堂々と、時におずおずと差し出すということにほかならない。そうして出された写真は、技術的な巧拙はあっても、倫理的な意味での「善い」「悪い」はないのだ。私はそう信じている。
かつて探偵たちが光り輝く知性で見せた「真実」を懐かしく思い返しながらも、結局この世界は、人の悪意と憎悪、そして時に邂逅や愛情、そしてそれらを取り持つ「偶然」と「誤解」によって成り立っている。そこから単一の真実を引き出すことはもはや不可能だ。そして、その不可能性こそが、新しいゲームのルールだ。写真だろうと、生きることそのものだろうと、自明のルールが崩れた以上ここからが本番だ。ゲームはまだ始まってさえいない。
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