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やっぱり悪役を作るのは難しい(PSYCHO-PASS シーズン3を見終えて)

【前説】
先日、年末にぽかっと空いた午前中にこんな記事を書いたところ、想定外にいろんな方々に読んでいただきました。これ。

これにはびっくりしました。公開2日でPVは2万を超え、単独の記事としては多分この1年で一番読んでいただいた文章です。僕、一応写真家で、かつ大学の文学研究者っていう肩書でフリーランスやってるんですが、原稿用紙20枚分の文章をあんなにちゃんと読んで貰えるなんて、アニメに転向しよかなと思ったほどです。日本の作るアニメの文化的強度と、そして社会的な広がりを感じました。だって、PSYCHO-PASSって、ドミネーターで打たれたら、犯人たち肉塊になるような軽いゴアも入ってるアニメっすよ。よくここまで広範囲の人気を得たなあと、あらためて感銘を受けます。

さて、では以下からこの秋から冬にかけて放映された最新シーズンの3を見ての感想を書きます。注意点として

1. PSYCHO-PASSの第一期第二期についても、ネタバレ込みで書きます。
2. 文学研究者の上に、劇場版の一番新しい短い三作品は見られてないので、頓珍漢なこと言ってたらごめんなさい。
3.「鬼滅の刃」についてもちょっとだけ。ネタバレというほどではないですが、無限列車編についてわずかに言及します。

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【1】 悪役を作るのは難しい、の前に

というわけで、前回に引き続き「悪」の問題系列で、このPSYCHO-PASS第三期を見直してみたいのですが、その前に、一般的な物語評価の観点から第三期を総括したいと思っています。その総括を書くに際して、まずお伝えしたいのは、下記の概括はわりと厳しいことを言ってる気がしますが、僕はこのPSYCHO-PASSという物語をここまで引っ張ってくれた制作の皆さんに感謝しています。ジャンルは違いますが、僕自身表現に関わっている以上、何かを作り出すことの大変さというのはすごくわかっていて、しかもこれほどコアなファンがいる物語を拡張していくのは想像を絶する覚悟と勇気が必要だったはずです。なので、まずは第三期を作ってくださってありがとうごいざいます、というのがまずはお伝えしたい部分です。

その上で書きますね。大まかにまず結論を言うと、第三期は「消化不良」でした。これに尽きます。これは見た人全員が多分感じざるを得ない、文字通りの「消化不良」だと思うんです。だって我々視聴者はてっきり第8話Cubismまでで第三期は終わると思い込んで見ているわけで、それが唐突に残り10分ほどのところで、敵側の主要人物である梓澤から「本番はこれからだ」と、ミエミエの観客向けのメタコメントを告げられ、そのまま終わっちゃうわけですから、我々は「狐」につままれたような気分ですね(誰がうまいことを)。週刊コミック誌の連載打ち切り「俺達の戦いはこれからだ!」みたいなラストという印象を受けてしまったわけです。

つまり、この第三期は、シーズン全体が映画版を前提とした、長い長い「予告編」とみなされても仕方ないわけです。これは怒っちゃう人が出ても無理ないなという気がします。映画版を前提にした物語作りが悪いとは言わないんですが、それならそれで最初からそう言うなり、少なくとも第三期を一つの物語として完結して、「第3.5期」的な物語を映画でやってくれたら良いんじゃないかという気がするんですね。

例としては色々ずれますが、「鬼滅の刃」が、既に物語として結論がわかっている「無限列車編」を映画として作成すると発表したことで、好評を得たのとは対照的でした。アニメに限らず、表現に関わる芸術は、メディア間の相互参照の枠組みの濃密さが文化を築くものなので、漫画で見たあのシーンをアニメという違うメディアで見られるというだけで、ファンはやっぱり納得するんですよね。この予告編PVを見たら、

結末はわかってるけど、「ああ、煉獄さん!!」ってなるわけじゃないですか。これって、自分の過去の感情が、別メディアを通じて未来に投影されるという、僕ら視聴者にとっての「壮大な物語体験」を構築してくれる仕掛けになっているわけです。PSYCHO-PASSは原作が無いから単純に比較はできないんですが、「劇場版」の作り方としては、この上なくうまい「鬼滅の刃」と比べると、PSYCHO-PASSのこの展開はやはり弱かったなあと。「予告編」って言われても仕方ない。それは同時に、単純に「第三期が映画を前提している」というだけではなく、第三期が全体を通じて物語として色々弱かったことをも意味します。それをいくつかここから指摘します。

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【2】 やっぱりサイコメトラーは中途半端

サイコメトラーって書きましたが、正確にはメンタルトレースですね。第三期の二人の主人公、慎導灼と炯・ミハイル・イグナトフのうち、慎導灼の方が使う特殊な能力がメンタルトレースでした。現場に残された僅かな証拠に対して極限的に精神的にシンクロすることで、犯人の行動や動機がわかってしまうような能力なんですが、詳細はわかりません。これがあまりうまく機能していなかったように思います。いや、逆ですね。機能させ過ぎている。物語の都合のいいところで慎導灼がメンタルトレースを行うことでイベントフラグが進行するんですが、フラグの立て方や進め方に特殊能力を持ってきてしまうと、それはギリシャの物語で言うところの機械仕掛けの神「デウス・エクス・マキナ」になりがちです。デウス・エクス・マキナとは、広げ過ぎた風呂敷をたたむために、作者が都合よく登場させる全能の神様のことです。

慎導灼のメンタルトレースはそこまでミエミエではないにせよ、第一期において狡噛慎也や常守朱が論理的思考とチームワークで犯人を追い詰めていった緻密な話の展開に比べると、都合の良さが目立ってしまいます。「他のメンツ、いらんよね」って思っちゃう。

このメンタルトレースの都合の良さのために、PSYCHO-PASSの物語としての方向性が、第一期に濃厚に漂っていた「刑事もの」としての緻密さから、よりSFに近い雰囲気になってしまいました。例えていうと、公式も影響を公言している「ブレードランナー」的な世界から、「攻殻機動隊」に変わった感じとでも言えます。勿論ブレードランナーも攻殻機動隊も僕は大好きなんですが、物語のコアのところの世界観がシーズンをまたいで変わってしまうと、視聴者は想定していた物語進行についていけず、置いてけぼりを食らってしまいます。勿論、その変化がうまく行っていれば全く問題ないんですが、今回はやはり唐突な印象を受けました。

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【3】 主人公が監視官二人のまずさ(執行官のモブ化)

もう一つ第三期の物語でまずいなと感じたのは、主人公の二人ともが監視官であるという設定だったと思ってます。例えば第一期と比べてみましょう。第一期において、我々視聴者は、基本的に執行官である狡噛慎也に肩入れしつつ、監視官常守朱の成長を見守るんですが、この二人は立場も違えば、奉ずる信念も全く違う。二人は別々の方向を向いているがゆえに、登場人物たちに対して抱く様々な思いの投影先として機能し、我々は物語にのめり込むわけです。

さらに狡噛と常守の二人が、男女のペアでありながら、恋愛というよりは強い信頼をお互いに持ちつつ、でもやはりどうしても譲れない一線のために交わらない感じに、ドラマツルギーを感じるわけです。第三期でもそれだけは変わらず、全話通じて最も印象的だったシーンは、狡噛と常守が分厚い扉を背にして話しているシーンでした。目線はそれぞれ反対方向、でもとても穏やかな表情でそれぞれの近況を伝える。そしてほんの少しだけ目線が交わる。嗚呼、なんて切ない!でも彼ら第一期の主人公ですよ、それが第三期通じて一番印象的なシーンってどういうことって感じです。

話を戻しましょう。監視官と執行官という目的は同じなのに見ている方向が違う人々が綱引きをするから、PSYCHO-PASSは独特の緊張感を持ち続けたわけです。ところが第三期では、監視官2人を主人公として採用した。つまり、主人公ふたりともが同じ目線、同じ立ち位置の人間になるわけです。二人共が「法と正義」を管理する側に立っていて、その目線で物語が進んでいくために、視聴者はそのいわば独りよがりの倫理観に置いてきぼりをくらってしまうことになります。今回の主人公、灼と炯も魅力的なキャラではあるんですが、二人が同じ方向を向いてしまっているのは、物語としての推進力として弱いと感じざるを得ないんですね。

最後の最後のところで、どうやら二人は映画版においては袂を分かつというか、敵味方に分かれそうな予感がありますが、少なくとも第三期だけを見れば、二人の主人公の関係は機能不全だった印象を受けます。第8話で二人が唐突に喧嘩っぽい雰囲気になった時、「その程度の関係性だったの?」って思ってしまったのも、ちょっと残念でした。

このことはもう一つ、PSYCHO-PASSにおける大事な魅力を大きく損なう原因になりました。それは「執行官のモブ化」です。物語の比重が「監視官」側に置かれるために、PSYCHO-PASSにおいて、本来最もドラマを生み出しやすい執行官たちの印象が、第三期はかなり弱くなってしまっている。第一期は常守と狡噛の関係もそうですが、宜野座と征陸の関係や、狡噛に強い信頼を持っている縢秀星と、その最期のシーン(ドミネーターに撃ち抜かれる瞬間に全部を肯定したような笑いは最高でした)、六合塚弥生の過去など、どれもこれも印象的な物語が「執行官」たちによってもたらされました。でも第三期って、「なんかあったっけ?」って思うほど、執行官たちの物語が弱くなってしまった。そのせいで第三期はドラマを生み出す感情の綱引きが薄くなってしまったわけです。

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【4】 恋愛要素や家族の物語は少なくしたほうが良かったんではないか

その一方で、慎導灼とアイドル都知事の関係は、深堀りされるほどではないほのかな恋愛的な関係性として描かれ、一方炯・ミハイル・イグナトフの方もまた、移民という立場で現代日本の問題に近づけながら、そこまで移民的な要素が出てきたのはようやく最終話近くに至ってからです。そこまでは「お互い強い信頼を持つ夫婦」というテンプレからはみ出さない夫婦関係でした。

一般的な物語においては、恋愛は家族の関係性というのはドラマを生み出す大事な要素ですし、実際第一期においても宜野座と征陸の関係は、親子関係の物語でした。ですが第一期の宜野座の物語は、あくまでもサイドストーリーで物語を豊かにするためのものだったのに対して、第三期の二人の執行官の女性との関係は、メインストーリーに置かれています。こうすることで、PSYCHO-PASSの持っていた独特の緊張感が、我々に近い場所に近づき過ぎたように思います。しかもそれが第三期のストーリーで深堀りされるわけではなく、単に「隙間を埋める」ような展開だったのが残念な点でした。

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【5】 シビュラの意味ってあったっけ?

これらに加えて、今回最もつらかったのは、あれほど第一期において、そして第二期においても強烈な印象を作り出していた「シビュラシステム」と「犯罪係数」というこの世界観の根幹の部分が、極めて薄い、あってもなくてもいいようなものになっていたのが何より残念でした。電波入らなくてドミネーター使えないみたいなシーンが出すぎだし、そもそもドミネータがもはや体温計レベルの「携帯犯罪係数測定器」になってたのがほんとに悲しかった。

PSYCHO-PASSにおいて、実は「善」より「悪」より大事なのは、シビュラシステムの存在です。シビュラは免罪体質者たちの脳を集め、彼らの大半は既存の倫理を逸脱している極悪人である場合が多いのにも関わらず、その彼らの逸脱した倫理をかき集めることで、「あらゆる善悪の倫理的判断が可能になる」という、よくこんな設定思いついたねというような最高に悪辣なシステム設計なわけです。つまりはシビュラの存在こそ、PSYCHO-PASSという物語を貫く支柱なんです。

その絶対的な存在であるシビュラに対して、「善」や「正義」のあり方を何度も問い直す常守朱や狡噛慎也たちと、「悪」や「逸脱」を提示する槙島聖護や鹿矛囲桐斗たちが思想的な対立軸を作り上げつつ、それをものすごくスタイリッシュかつ残酷な肉体の戦いで描き出すというのが、PSYCHO-PASSの魅力でした。第一期はそれが完全に達成され、第二期も、ちょっと脚本が甘いというかもったいない気がしましたが、それでもPSYCHO-PASSは「シビュラの物語」だったと言えるくらいには、しっかりとPSYCHO-PASSでした。多分最後の方の展開がもうちょっときっちり詰められていたら、第二期はもっと素晴らしい作品になってたんじゃないかなと思うんです。

でも第三期においては、シビュラに対して敵対する「ビフロスト」なるグループが現れ、これが本当に、「ぼくのかんがえたさいきょうの悪のひみつけっしゃ」みたいな感じなんです。彼らはシビュラに唯一対抗できる組織としてこのドラマに出てくるのですが、何がどのように対抗できるのか実にふわっとした描写で、今ひとつはっきりしません。

コングレスマンが頭脳の役割を果たし、インスペクターたちと狐がその命を受けていろいろな犯罪を行うわけです。で、実行役の「狐」たちは自分が何をやっているかわからずに部分だけを担当するので、サイコパスが濁らない、だからシビュラに対抗できる組織なのだ!となっているわけですが、実際のところ、大体の犯罪組織ってそうなんですよね。末端なんて全体を把握してないし、自分が悪いことをしているなんて知らずに加担しちゃうのが、今の世の中の悪の形なわけです。あの美しい悪夢のようなシビュラに対抗するには、実に普通過ぎて拍子抜けしちゃうのが「ビフロスト」でした。せめて鬼滅の刃の十二鬼月みたいな強い個性のある存在なら良かったのですが、、、(いや、それはそれで違うんだけど)

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【6】その上で悪役の問題

ここまでを踏まえて、改めてなんですが、実は僕はまだ映画版に期待をしているんですね。これはまさに「予告編」としてこの第三期を考えた時、うまく回収できたらいいドラマになるんじゃないかという気がするんです。その理由もまた、「悪」にあるんです。

第一期を見終えて、第二期があるとわかった時、「これを超えるのは至難の技」と思ったことは、前回の記事で書きました。つまり、第一期のシビュラに対する槙島聖護というのは、本当に出来すぎなくらいに完璧な「悪の枢軸」を作り出していたわけです。見ている人間がその純粋な悪ゆえに、強烈に惹かれてしまう程に。それは狡噛慎也の狂気を孕んだ執着を見ても明らかで、槙島聖護という存在のカリスマ性こそが、PSYCHO-PASSをここまで人気にした主因なんです。

そして前回の記事で書いたように、槙島聖護というのは「善悪の彼岸」の向こう側にいる「悪」という設定なので、続きを書くとしたら、これはもう「向こう側のインフレ」をドラゴンボール式に起こすか、あるいは第二期の様に「シビュラのシステム的盲点を突く悪」を作るしか方向がないように思えました。でもこの二つはどちらも筋が悪い。展開が大雑把になるのは、第二期を見てもわかります。

この観点から考えると、第三期の「悪」であるビフロストは、ここまでかなり批判的に書きましたが、実はいい線行ってる気がするんです。というのも、ビフロストはシビュラの「鏡写し」の存在であることが、第三期の後半あたりでわかってきたからです。多分本当は製作者はこれが書きたかったはずです。コングレスマンはおそらくは「免罪体質者」なので、シビュラの「免罪体質者の脳のつなぎ合わせ」と同じような合議システムがトップにあります。そして12人いるインスペクター(炯・ミハイル・イグナトフが13人目というのは、極めて示唆的です。だってそれは裏切り者の「ユダ」が背負う数ですから)は、シビュラの側にいる「監視官」そのままです。全体をわかっていながら、サイコパスが濁らない強靭なメンタルを持った人物たち。第三期の最後のほうで出てきた、ちょっと太ったプログラマーの女の子は、全体を知った上でも全然サイコパスが濁ってませんでした。つまりは、インスペクターたちは「ビフロスト」=「鏡写しのシビュラ」のやっていることを「正義」であり「法」であるという信念を持ってやっているということなのでしょう。霜月美佳が第二期であれほど悪いことしていても色相が濁らず、常守朱があれほど絶望的な真実を見せられても色相が濁らないのは、彼らが免罪体質者ではなくて、シビュラの司る「正義」や「法」に、根源のところで信頼をおいているからです。インスペクターたちの色相が濁らないのも同じ理由でしょう。そして「狐」と名指されている実行犯は、シビュラにおける「執行官」の役割を果たすというわけです。

こうやって「ビフロスト」はいわば、もう一つのシビュラシステムとして作られているので、PSYCHO-PASSの第三期の「悪」は、この世界の「善悪」を判断するシビュラと、それを模した「もう一つのシビュラ(ビフロスト)」との戦いという、いわば「シビュラ同士の戦い」として描かれる構想があったと思います。つまり「最強の矛」と「最強の盾」との戦いという形になっているわけで、これは方向性としては脈アリなんですね。

そしてそれに期待を持っているというのも、ラストのところで炯・ミハイル・イグナトフがインスペクターの側におそらく「闇落ち」しているからで、来年に予定されている映画では彼がアナキン・スカイウォーカーとなり、ルーク・スカイウォーカーである慎導灼と戦うことになる筋書きが考えられます。この展開はこれまでのPSYCHO-PASSではなかったものです。

PSYCHO-PASSは、物語の大半で、それぞれの登場人物は善システム側か悪システム側かに役割を固定的に割り振られている傾向があって、それが極めてソリッドな物語展開を可能にする原因の一つだったのですが、PSYCHO-PASS第三期は、例えば霜月美佳が第二期とはかなり違う性格に変わっていたり、常守朱が「扉の向こう」に監禁されていたりと、これまで背負っていた価値観を揺らしてくるような方向へと物語の舵を切っています。それが英断になるかどうかは、この後の映画次第でしょうが、僕は期待を持っているんですよね。

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【7】 まとめ

とういうことで、かなり散々な書き方をしていますが、実際にはやっぱり第三期もかなり楽しく見ることができました。なんだかんだで、宜野座が出てくるシーンには胸が熱くなったし、相変わらず攻撃性能と理知能力がチート級の狡噛慎也はかっこいいし、霜月美佳も面白いキャラになってきたしで、シーズンを長く見ている人がニヤッとできる場所はたくさんありました。

そして何より、ここまでしっかり考えて書きたくなっちゃうほどに、PSYCHO-PASSという物語はよくできているということです。先の記事で人類最初のフィクションは神話と宗教と書いたのですが、あらゆるフィクションが、「もう一つの世界」を描く試みであるともいえます。森見登美彦の『四畳半神話大系』において、たった「四畳半」の空間から順列組み合わせの4つの物語が生まれたように、あるいはマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』のあのすべての世界が、マドレーヌを浸した紅茶から飛び出してきたように、PSYCHO-PASSもまた良質のフィクションが作り出す強固な世界線を作り得ている、第三期を見ているとそう感じました。そうでないと飽き性の僕にとっては、第三期まで見る興味が持続しないんです。

問題はこの後ですね。映画の2時間の枠組みの中で、かっこよくスタイリッシュにすべてをまとめてくれることを願って、2020年を楽しみに待とうと思います。

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