写真と文学のバナー

写真と文学 第三回「光と闇で構成された都市の二面性」

 高層ビルから見下ろす都市の夜景は、普段地上で見ている世界とは違う美しさを見せる。光が満ちあふれ、ビルは輝くバベルの塔のように、世界にその虚栄を誇る。人工光の力は、人間の文明が作り出した「新しい風景」の1つだ。だからこそ、夜景を見たとき、我々の心が躍る。1つ1つの光の下で、大事な家族が健やかに生き、かつて別れた恋人が新しい恋を見つけ、離れ離れの同級生たちが元気にやっていることを想う。夜景写真は我々人間の儚い夢の結晶なのだ。壊れやすい、とても大事な夢の。人工の光に集うそんな想いを、かつて印象的な文章とともに書き出した作家がいる。クリスマスを迎えていつも以上に光に満たされる都会の夜を、こんな風に描いた文章を他に見たことがない。

「あの光のひとつひとつが照らす場所に、それぞれ人間の生活がある。今夜、百万ものケーキにみなが向かい合っているだろう。しかし、ケーキなどとは無縁の場所で、悲鳴をあげている人間もいる。僕らの耳が貧弱だから、その声が聞けないだけだ。」―島田荘司『御手洗潔の挨拶』講談社、1991年、P.75

 光を思うとき、島田荘司の生み出した名探偵・御手洗潔の目は、その下に生まれる闇の深さを同時に視る。闇の中であえぐ魂を光の下にも見出す。「探偵」という単語を英語に翻訳すると、2つの単語で表される。1つはdetective。何かをdetect(探す、見破る)する人という意味の単語だ。そしてもう1つはeye。探偵はprivate eyeとも訳される。探偵とは「目」なのだ。彼らの目が都会の光を見下ろすとき、孤独な魂が抱える闇までも見通す

 ところで、あなたは不思議に思ったことがないだろうか。なぜ、探偵たちの周り、例えば江戸川コナンくんの周りに、あれほどの死体が溢れるのか。設定では7歳の小学生。中身が17歳であることを加味したとしても、これまで見た死体の数は百戦錬磨の傭兵でさえ裸足で逃げ出す数だろう。端的に、この状況は異常だ。

  勿論こんなことを敢えて言うのは無粋のお叱りを受けるかもしれない。「だってこれは探偵小説なんでしょう、しかも少年コミックの!」と。それは私自身も承知している。ただ、探偵物語という前提を受け入れた読者にはお約束のその状況も、改めてその特異な状況を視野に入れると見えてくるものがある。それは「探偵と犯人」の同値性というべきものだ。探偵が全知全能であるためには、他の誰にも解き明かせない「完全犯罪」が必要なのだ。探偵の周りには、並みの死体では華がない。異常な死体が転がっていなければならない。そしてその死体を彩る完全な密室、完全なアリバイ、つまり「トリック」も必要だ。それらを考え出した犯人の「完全な知性」の存在こそが、探偵の全知全能性を引き立てる。探偵小説は、探偵と犯人の罪深いコラボで成り立っている。その様な観点から探偵小説を眺めるならば、探偵と犯人は、論理的には同一人物でしかありえない。そうでなければあれ程に完璧にトリックを見破ることなどできない。だから彼らの周りには何百という死屍累々の死体が転がるのだ、探偵の栄光を言祝ぐために。なんとも罪深き愉楽!!

 こうした探偵と犯人の同一人物性は、実は文学の世界の中では古くから指摘されている。それは先に書いた都会の夜の二面性とも共鳴してくる。都会の夜が美しいのは、その光を引き立てる闇があるからこそだ。都会の夜景は罪深いほどに美しい。東京も、ニューヨークも、パリもロンドンも、抱えている闇が深いからこそ、その光が人を魅了する。人は光に惹かれているだけではない。闇の誘う罪が、あなたの無意識を誘っているのだ。ここに堕ちろと。

 島田荘司の先の引用が美しいのは、都市の持つこの二面性を鋭く描き出しているからだ。そのような「闇と罪の場所」としての都会に敏感に反応した最初の作家は、他ならぬ探偵小説を発明した作家、エドガー・アラン・ポーだった。彼は短編『群衆の人』の中で、都会自体が持っている、不気味な奥深さを巧みに映し出している。

夜が深まるにつれて、群衆たちの構図もますます味わい深くなっていく。というのも、群衆の一般的性格が物理的に変化するばかりではなく(中略)、当初こそ夕暮れとのせめぎ合いでいかにも弱々しく見えたガス灯がついに幅を利かせるようになり、街のすべてを奇妙で絢爛たる光のうちに輝かせるからだ。―エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人・黄金虫』収録“群衆の人" 巽孝之(訳)、新潮社、2009年、P.126

 主人公は群衆を見ているうちに、その中の1人の老人に強い興味を感じて追い始める。だが、読者は読んでいるうちに徐々にどちらがどちらを追っているのか分からない、不安な状態に追い込まれる。短編の最後、ついに主人公はその老人の正面に回ってまじまじと相手の顔を直視する。まるで鏡を見ているかのように。「追うもの(探偵)」と「追われるもの(犯人)」が、2人で1つの存在であると考えるべきことがよく分かる結末だ。そしてこの循環性は、都会の都市ゆえに起こる。都会の中であなたが電車で乗り合わせる人は、人生の中で二度と会わない「誰か」だ。その誰かにも人生はあるが、決して名前のある特定の個人ではない。都市の中で人は記号化する。あなたは特定の「あなた」としては存在し得ず、あなたは他の誰かといつだって交換可能だ

 空虚な記号としての人間が集まった都市の中でこそ、探偵たちは生き生きと動き出す。探偵小説で殺される人々は、その特異な死で耳目を集め、初めて「名」と「姿」を与えられ、記号としての「誰か」から「被害者A」に昇格する。犯人は、記号でしかない人間に個性を与え、「不可能な死」という劇場を与える。探偵もまた、全能の知性を用いて、死んだ人間の「過去」や「夢」を再構成する。探偵と犯人は、都市の中で無記名の人間に「固有性」を与える存在と言い換えてもいい。顔のない人間に「人生」という夢を与える所業、まさに神の業だ

 そろそろ写真の話に戻ろう。犯人と探偵によって描き出される「都会の闇」は、都市夜景の撮影で描かれる美しい光の姿とは正反対の存在だ。長秒露光で闇は払われ、画面は人工の光であふれる。長秒露光の効果で、邪魔な人影も全て消え去ってしまう。人などそもそも風景には必要ないとでも言わんばかりに。あふれる光、人のいない虚構の美しさ。都市を象徴する記号そのものだといっていい。都市夜景は探偵と犯人が活躍する、その舞台だけを写しているようなものだ。我々が望む「こうあってほしい」と願う対象としての「光あふれる世界」を映し出す写真。

 だがその「光」を打ち消してしまう闇の中に、探偵と犯人の目は孤独な魂を見出す。まるでその目線をシミュレートしたような写真のジャンルがある。都市の中をさまよう人間を一瞬で切り取り、その人間の固有性の全てを取り込もうとするジャンル、スナップ写真だ。長秒露光で描かれる都市とは違い、刹那的で危険で、しかしそうであるがゆえにどこまでも生身の人間の本質に迫っていく。スナップ写真を見ていると、時にその人間性の本質に踏み込む迫力にたじろぐ。都市スナップの達人たちの写真を見るたびに、彼らが切り込んでいく光と闇の深さに、ほとんど畏敬に近い感動を覚える。いつか私もまた、彼らの立つ場所へと踏み込んでいけたらと一瞬思うが、その一方で私はせいぜい探偵の横で間抜けな顔をして読者を楽しませるワトソンの役割くらいがちょうど良いのかもしれないと思い直す。


*註
オリジナルの原稿はデジタルカメラマガジン2017年9月号に掲載されたものです。確かこの号から大山顕さんの工場建築の連載が始まった記憶が。そして友人の藤原嘉騎が表紙を飾ったのもこの号でした。懐かしい。ぜひぜひそちらもご覧になってください。


記事を気に入っていただけたら、写真見ていただけると嬉しいです。 https://www.instagram.com/takahiro_bessho/?hl=ja