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「天気の子」はセカイ系の物語でもあり、世界の物語でもある(もはや存在しない「世界」に向けて)

天気の子、ようやく見られました。劇場版で見ようと思ってたのだけど、君の名はの歴史的なヒットを経た後で、「現象」化している新海作品を普通に見ることなんてできない気がしたので、ほとぼりが冷めたあたりで見ようと待っていたんです。随分遅くなっちゃいましたが。

さて、で、見終わって素直な感想ですが、新海監督はすごいなというのが結論です。「君の名は。」の流れの後に来る作品として、これ以上に異質かつふさわしい作品というのはなかなか考えられない。「君の名は。」で集大成化された「セカイ系的文脈」を全て引き受けつつも、この映画は一方において「セカイ系に対するアンチテーゼ」としても機能していて、その両極端を整合させているところに、作家としての気力の充実を感じます。村上春樹で言えば、「ねじまき鳥クロニクル」に似た、初期の作家性を後期(というとまるで終わったみたいですが、記述上初期と区分けする意味で)に接続するような膂力を感じる一作です。

で、僕は基本的にある作品を見終わると、自分なりの文章なり思考なりを書くまでは、外部情報を入れないようにするというのが「自分ルール」なんですが、ちょっとだけさっき「天気の子 セカイ系」で調べてみちゃいました。普段やらない禁じ手なんですが、作品公開から随分時間が経ってるので、似たことを考えてる人はたくさんいるだろうなと思って。すると、やはり出てくるのは「天気の子はセカイ系だ」という観点。一方、逆の観点「天気の子はセカイ系ではない」もありました。その中で良いなと思った文章を2つ紹介します。まずは「天気の子」をセカイ系文脈で丁寧に捉えている文章。

一方、「天気の子」はセカイ系ではないという観点で捉えている丁寧な文章。

2つの記事ともに、素晴らしく丁寧な記事の展開で感銘を受けました。ということで、それぞれの記事を読んだ上で、僕が感じていたことを以下から書きたいと思います。その前に注意点。

1. 「天気の子」をまだ一回見ただけなので、引用のセリフや細部は間違ってる可能性があります。
2. 結末まで全部ネタバレしてます。
3. 「君の名は。」や「天空の城ラピュタ」も若干ネタバレ気味です。

というあたり、お気をつけください。ではスタート。

1.「セカイ系」としての「天気の子」

ところでそもそも「セカイ系とは何なのか」という問いを持たれる方も多いと思うので、東浩紀さんの有名な定義を引用しておきますね。

「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」(Wikiの「セカイ系」から引用)
https://ja.wikipedia.org/wiki/セカイ系

この特質のために、セカイ系の物語は主人公の過剰な内面性に着目したり、あるいはセカイ構造への意識のためにメタ批評的な目線が生まれたりと、あの独特の「ゼロ年代の物語」の特質が次々に生まれてくるのですが、ゼロ年代の終わりとともに「セカイ系」がそれとして語られるようなことは少なくなった気がします。

そういう状況下においての「君の名は。」の超ヒットからの「天気の子」の大ヒットという、驚くような展開。新海誠監督の作品は、基本的には上の「セカイ系的文脈」で語られることが多い作家だと思うんですが、それはつまりは、大多数の一般的な価値観、道徳観、倫理観とある程度乖離しているということを意味します。極めてピュアでナイーブな、そのためにあざといほどに露骨でもあるような、そういう作家である気がします。そのような気質の作家なので、セカイ系に特徴として現れる「具体的な中間項」、上のWiki内で「社会領域」と呼ばれる空間の欠如として現れることになり、「天気の子」でも見事なほどに「社会領域」は物語としては描かれていません。

帆高はなぜ島を出たのか、陽菜の両親はなぜいないのかといった、いかにも「物語」の素材として深堀りされそうな部分はほぼカット。また、陽菜はどうして最初に性産業を選びそうになったのか、帆高はなぜ銃を手に入れ、それを撃つことになるのかというような、テーマ性を与えるエピソードは、あくまでもそれらを記号として消費するために登場しているのであって、物語として展開されるために用意されているのでもありません。こうした「社会領域」として描かれそうな部分が欠落しているというのは、やはり「セカイ系」の特質と見えます。つまり、かなり偏った物語の描き方。でもそれが爆発的にヒットした。それがこの物語の一番興味深い点です。

2.感情曲線による「感情の喚起」の巧みさ

もちろんそれは新海誠監督の構成のうまさによってもたらされているわけです。新海監督自身が語られているように、新海作品は基本的に「感情曲線」の極めて丁寧なマネージメントによって作成されています。

乱暴な言い方をすると、新海監督の作品は「感情が動く様にできている」といえます。つまり、美麗なアニメーションと、極めてうまく配置される個々の記号によって、僕らの感情は否応なしに喚起されるようになっています。

1つ例をあげましょう。今回の「天気の子」でも、本当にうまいなあと思ったのは、K&Aプランニングの須賀さんのところに警察が来たシーンで、老警察官が「須賀さん、あなた大丈夫ですか?」とといった直後に須賀さんが無意識に涙を流しているシーンを大写しにするという、あれです。あれはうまいし、こういう言い方が許されるならば、とてもずるい。

直前まで、須賀さんは部屋の中の柱に刻まれた娘の身長の記録を見ているわけです。おそらく彼が考えた「どうしても会いたい人」は、離婚して別れて住むことになった娘なんでしょう。その気持が強いがために、帆高が陽菜に「もう一度会いたい」と、警察や社会や、あるいは「世界」さえも敵に回しても一途に彼女に会いに行こうとする気持ちに共感しちゃうわけなんですが、このシーンって僕らのような40超えたオッサンなら、どうしても泣けちゃうんですよ。失ってしまった大事なもの、人、その記憶。そうした全てが、あの須賀さんの涙によって喚起される。あまり深く語られなくても、適切に配置された記号(この場合、身長を刻んだ柱の絵)がいくつか提示されることによって、僕らの記憶が共振するようにできている。こうした感情のマネージメントが新海監督は極めてうまい。だから心は動かされるんです、どうしたって。

3.僕らの生きる「世界」は、もう「セカイ」ではないのか

とはいえ、話は戻りますが、どれだけ感情のマネージメントが卓越しているといしても、それだけで「引きこもりがちな男子の幻想」を純粋培養したような物語である「君の名は。」や「天気の子」が爆発的に受けた理由と言うことは難しい。どちらかというとマイノリティ的感性である「セカイ系的物語」が、他ならぬ「世界」に受け入れられた、しかも爆発的に受けたのは理由があるんだと思うんです。それはたった1つ、こういうことではないかなと。僕らの生きる世界が、もう「セカイ」になりつつある。「社会領域」が存在しない、「僕」の向こうが「セカイ」であるような場所が、今の世界なんだと。だから、この物語は「セカイ系」であるように見えて、実際には「僕らの今の世界の実感」に極めて近い感触を描き出している気がします。つまり「天気の子はセカイ系だ」という捉え方と「天気の子はセカイ系じゃない」という捉え方、その両方が正しいと考えます。

僕らの世界が「セカイ化」しているというのは、肯定的な意味でも否定的な意味でも捉えることができそうです。否定的な面から言うならば、日本においては2000年代以降、小泉構造改革による新自由主義の導入によって、いわゆる「一億総中流」がなくなりました。統計上は実際には日本の中間層はまだまだ分厚いらしいのですが、でも問題は「中流がなくなった」という意識が僕らの日常として語られる時代が来たということです。階層化が進み、分断が進み、経済的な格差や、クラスターごとの価値観の断絶によって、世界はタコツボ化しているような、そんな「気分」が蔓延しているのがこの2020年の現在。誰ももう「中流」なんて思っていないんじゃないかと思うんです。何かの失敗をやれば、自分はもう這い上がれない下の方まで落ちていくというような不安感を抱えて生きる。

そうなると「社会領域」でかつては機能したような「みんなが共有できる物語」はどうしても形成されづらいと思うんです。その場所はかつて「文学」や「小説」が生まれた場所です。ドストエフスキーやトルストイ、ディケンズやフォークナーが「物語」の場として選んでいた「社会領域」は、もはやゼロ年代以降は見えてこない場所になってしまった。必然的に僕らはそこをすっ飛ばして「セカイ」へと駆け抜けていくしか無い。そこでしか「物語」は駆動しないような、「世界のセカイ化」という事態が進行していたそしてその感触をすべて引き受ける形で出たのが「君の名は。」と「天気の子」ではないのか。

そういう物語だからこそ生きてくるのが、ほとんど写真かと見紛うほどリアルに書き込まれた背景の絵です。新海監督の背景絵って、狂気に近い現実との整合性が話題になるじゃないですか。僕自身、「君の名は。」の聖地に一度行ったことあって、その時新宿警察の裏側の写真を撮ったんですが、あまりにも映画そのまんまでびっくりした経験があります。その時の写真が↓です。

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「社会領域」で描かれる物語がほとんど無いにも関わらず、「天気の子」で描かれる社会の絵自体は、極めてリアリスティックです。「あ、ここ渋谷じゃん」って、滋賀に住んでる僕でさえ思い出せるほどの写実性。それが意味するのは、この「写実的な世界」こそが、違和感なく「セカイ系の物語の背景になりえる」ということなんです。

一方その緻密に描かれた「写実的な世界」が「物語進行における大事な場所」にはなり得ない、あくまで「背景として処理される」ことは、物語の三次元的構造とも密接にリンクしています。「天気の子」の地理的に重要な意味を与えられているのは、帆高と陽菜と凪の作る小さな小さな「僕らのセカイ」と、「世界の運命」が決定される、あの雲の上の「セカイ」であり、その間の上下運動によって3次元空間が構成されています。「僕らのセカイ」はすごく低くて小さくて狭い場所で、電車の振動で揺れちゃうような、大きな地震でもあれば倒壊するようなアパートの一室です。あるいは途中で帆高がホテル(多分ラブホテル?これもうまい記号処理です)での一夜を「永遠にこのままで」と祈ったような、ああいう小さなセカイが「僕らのセカイ」として一番下にあります。その場所から、陽菜は「一番高いところ」に一瞬で消えてしまうというのが、この映画の一番根本的な「3次元空間の構成」を決めています。間はすっとばしなんです。つまり、普通の人間が生きているような場所である「社会領域」は、物語の一番大事な部分とリンクしていないんです。そこを書こうとするならば、あの大洪水によって死んだ人だって絶対いるはずなんですが、そういう「社会の痛み」は物語の対象にはなっていません。

この感触は、実はセカイ系の走りの様にも思える「天空の城ラピュタ」と似ている気がします。ツイッターにも書いたんですが、こんな感じ。

「天空の城ラピュタ」はもちろんセカイ系ではないです。というのは、宮崎駿監督の持つ強烈な社会批判的意識のために、彼がめがける場所はやはり「世界」であり「社会」なんですよね。必死に先人が築き上げて来た場所で戦う。でも一方、宮崎駿監督って、少年の「世界を敵に回しても女の子を救うんだ!」的な、ピュアでナイーブで青臭い感触も持っている。それは例えばラピュタのパズーにもそのまんま出ています。だって彼は軍隊を敵に回して、海賊に入って、シータを監獄から救いだすわけです。端的に言えばそれは非法的行為です。つまりセカイ系に特徴的な「法を逸脱しても、運命の女の子を救い出す」という特質が色濃くあるわけです。だからこそ「セカイ系のハシリ」にも見える「天空の城ラピュタ」ですが、ラピュタもまた、「世界」の運命が決定する「セカイ」は、「龍の巣」という爆弾低気圧の中心にある天空都市ラピュタです。それと対応する「小さい僕の生きる場所」は、あのラッパを吹くお家ですね。あの場所と、「天空の城」の上下運動のムーブによって物語は駆動している。「空から女の子が降ってくる」というあのシーンによって物語は象徴的に開始され、その女の子を助けるために少年が空に上っていくというのが、ラピュタの地理的な動きです。

もちろん、もう一度いいますが、宮崎駿監督はセカイ系作家ではないので、パズーが生きる「社会領域」は、色濃く描かれます。それでも、あの物語はものすごく高い場所と、ものすごく低い場所との間の上下運動が物語を強烈に動かしていく。中間にとどまる時間は物語の重要な「舞台」ではない。そのラピュタに似て、「天気の子」もまた、女の子は上から降ってくる光によって力に目覚め、最後男の子は「運命の少女」を助けるために空に上っていくわけです。上と下の連動の中で、「中間部分」である「社会領域」は、重みを与えられていない。それにも関わらずその中間領域は、ものすごくリアルに精細に描かれる。物語的に極めて軽い場所にも関わらず精緻に描かれるこの場所こそ、僕らが日々「実感なく生きさせられている場所としてのセカイ」という感触を思い起こさせるわけです。僕らいま生きてるんですかね、ほんとに、的な。

特にそれは、リモートワークが徐々に浸透し始めているコロナ時代においては、より一層「リアルなアンリアルさ」と共鳴する感覚です。僕らは渋谷があることを知っている。新宿があることを知っている。映像を見ればそこに人が生きていることも知っている。でも、その場にはもう行かない、行けない。人と人が集まることは、今では避けるべき事象だから。

こんな場所になった今の世界って、本当に「セカイ」そのものじゃないかって思うんです。会ったこともない、行ったこともない、でもやけにリアルに知っている場所を舞台にして、良いことも悪いこともSNSを通じて引き起こされるような世界/セカイ。非現実のリアリティショーでの振る舞いを「リアル」と勘違いした人間が誹謗中傷し、そのことによって血も肉もある本物の女の子が死ぬ世界/セカイ。行ったこともない都市で行われた白人警察による黒人殺害の映像をみて、インスタグラムが真っ黒になる世界/セカイ。僕らはいつのまにか、「社会領域」での生活や合意が必要ないままに進行していく「セカイ」に生きているんです。それはもう、良いこととか悪いこととかいう話ではなく、現実として。

だからこそ、「君の名は。」や「天気の子」が受け入れられたのではないか。そんな気がするんですね。僕らはもう「世界」を失い、「セカイ」に生きている、そういうことなんじゃないかと。

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