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なぜ同じ本を何度も読むのか(あるいは、村上春樹『一人称単数』について)

大学一回生のある日、人との待ち合わせに少し早く着いてしまって、食堂のテーブルでカミュの『シーシュポスの神話』を読んでいた。カバンにはいつもその本が入っていて、外装もボロボロ。もともと僕は本のカバーをつけないので、お気に入りの本は大体ボロボロになっていく。そんな本を、読むともなく読んでいた時のことだ、もう20年以上前のこと。赤ん坊が生まれて成人になるだけの時間が過ぎている。でもまだ一週間前のことのように思い出せる記憶の一つ。

食堂は大学らしい軽薄な喧騒に満ちていて、昼休みに入るとどこかでバンドの演奏が始まった。今年大学に入った1年生たちが知らない、大学と言うシステムの中で繰り広げられる、愛すべき日常の風景。奪われて初めて見えてくる貴重な無駄。

突然本の向こうから顔を出したのは、待ち合わせに幾分遅れてきた女の子だった。何か文句の一つでも言おうと思った矢先に、僕に向かって言った言葉が印象的で、だからこの瞬間のことを思い出す。

「これよく読んでるけど、なんでおんなじ本何度も読むん?」

不意を突かれたせいもあって、言葉が出てこない。そして言葉が出てこないまま、僕らは約束していたバンド用の機材を買うために歩き始めてしまった。あの問いに答えられないまま、20年も経ってしまった。彼女は元気にやってるのだろうか。

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カミュの『シーシュポスの神話』だけではなく、当時僕の鞄の中には、「スターティングメンバー」のような本が何冊かあった。どれも薄い本だ。昔から重たい荷物が嫌いだったので、スターティングメンバーはいつも薄い。村上春樹の『風の歌を聴け』、サン=テグジュペリの『人間の土地』、アゴタ・クリストフの『悪童日記』、エドガー・アラン・ポーの短編集など。中でも『シーシュポスの神話』と『風の歌を聴け』が、3番と4番バッターで、暇な時間ができるとその一節をよく読んだ。僕にとっては、同じ本を何度も読むのはごくごく自然なことだったので、だからこそ彼女の質問に不意を突かれたのだ。だって、そんなの当たり前じゃないの?

いや、当たり前じゃなかったようだ。

その後、他の人からも何度か同じような質問をされたことがある。その度ごとに、何か要領を得ない返事をしてきたのは、僕にとってはあまりにも自然な行為だったために、うまく言語化できなかったからだ。自転車の乗り方を人にうまく説明できないのと同じように。

多くの人にとって、本は一度だけ読むもののようだ。「なぜ何度も同じ本を読むの?」と言う質問には、「なぜ筋もわかっていて、結末も知っている本を何度も読むの?(それってもしかして、時間の無駄じゃない?)」と言う含意が含まれているらしいと言うことを知ったのは、ずいぶん後になってからのことだった。

実際それは、ミステリのような明確な「謎」と「プロット」と「結末」がある本ならそうかもしれない。でも僕に関していえば、結末をわかっていても何度も島田荘司や京極夏彦の本は読み漁ったから、結局それもあまり関係がないんだろう。つまり、僕にとって本とは「プロットを消費するもの」ではないのだ。

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では一体何を求めて本を読むのか。本を読むとは一体何なのか。僕は何を求めて本を読んでいるのか。それは、同じ本を二回以上読んだことのある人には、言わずとも伝わる「あの感覚」のためじゃないかと思っている。

あの感覚、懐かしい地元の街に戻ったような感覚。長く会っていなかった故郷の友人に出会う感覚。あるいは逆に、道を一本間違えたせいで、いつもと全然違う雰囲気の区域に迷い込んでしまったような感覚。それらは全て、「一度知っていること」を基盤に起こる「再会」や「再発見」の感覚と言うことができる。

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初めての本に出会うことは、それはいわば、全く知らない街を歩くようなものだ。どこに食料品店があって、どこに郵便局があり、時に首輪に繋がれていない大きな犬がうろついている危険な区域があり、何でもないように見えて精妙に組み上げられた大通りと、設計者自身がなぜ作ったか忘れてしまったような細い枝分かれの道がある。そう言う「街固有のロジック」を必死に習得すること。それが「一度目の読書体験」だ。そのような体験は出会いと発見に満ちた、興奮するような経験だろう。

でも、それはあまりにも未知の情報が過剰なために、僕らは終始、それらを的確に位置取りすることに知力の大半を取られてしまう。そして大体の「地図」が出来上がる頃に、一度目の読書は終了する。そして比較的多くの人は、出来上がった地図を置いて、別の国、別の「本」へと旅立ってしまう。それは本当はとてももったいないことなんですよ。

二度目以降の読書は、「地図」を片手に、もう一度その街を再訪するようなものだ。その時、僕らは余裕を持って再び歩くことができる。もう巨大な黒い犬に怯えるスリルは味わえないかもしれないけど、その代わりに、一度目はその意味がよくわからなかった「細い枝分かれ道」が、実は別の区域に通じる抜け道だったことを発見するかもしれない。あるいは、一度目の往来で見つけることのできなかった獣道を見つけて歩いて行った先には、その地図全体の「意味」が書き換わるような、新たな空間が見出せるかもしれない。一度目に「地図」を作っているからこそ、二度目以降の「再訪」は、その最初に書いた地図との差異によって、より豊穣な世界を作り出す。何度も何度も同じ本を読むと言うことは、その本が本来抱えている無限の空間を、少しずつ広げていくと言うことに他ならない。一度目では決して見えてこない風景が、二度、三度と読み返すことで、少しずつ姿を現すようになるのだ。

多分、僕はそう言うことが言いたかったのだ。あの時、あの子に。

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そしてそうやって何度か本を読んでいると、いつかあなたは、大好きな作家に出会うことになる。そうなったらめっけものだ。例えばあなたは村上春樹が好きだとする。そして待望の新作を手に取ったとしよう。その新作は、他の、まだ読んだことのない未知の作家の本とは違う、あなたが自分自身で時間をかけて準備した空間をその新発売の本は内側に潜ませて、あなたの前に現れる。そして、あなたはまだ一度も歩いていないはずの街に、かつてどこかで、何度も歩いて熟知した別の街の地図が、数奇なロジックを経て、「重ね書き」されていることに気づくだろう。その「重ね書き」を感じるあなたの目線は、一つの物語を多層化し、あなただけにしか見えない「もう一つの物語」を立体的に作り出す。たくさんの本を読み、ある作家を時間をかけて愛することによって生まれるのは、文字という映像さえ伴わない記号が作り上げる、立体的で多層的な「あなただけの物語」と言う魅力的な空間なのだ。

その経験は、いつかあなたが自分の人生と言う、最も大きな「街」で迷い、絶望的な気持ちで佇む時、あなたを助け導く最後の灯火になる。かつて何度も別の街を歩くことで培われた足腰の強さは、自分の人生と言う街が持つ巨大な迷路を探求する時、崩れ落ちそうなあなたの膝を支えてくれる。なぜなら、あの物語たちもまた、作家たちが「自分の人生」と言う街を必死に歩いた「地図」の一部を模写したものだからだ。それはつまり「魂の羅針盤」のようなものとして、あなたを導く、必ずいつか。

村上春樹は、最新作の短編集でこんなことを書いている。一人の女の子に出会った時の、その意味をこんなふうに描く。

心臓が堅く素速く脈打ち、うまく呼吸ができなくなり、プールの底まで沈んだときのようにまわりの音がすっと遠のき、耳の奥で小さく鳴っている鈴の音だけが聞こえた。誰かが僕に急いで、重要な意味を持つ何かを知らせようとしているみたいに。でもすべては十秒か十五秒か、そんな短い時間の出来事だった。それは唐突に持ち上がり、気がついたときには既に終了していた。そしてそこにあったはずの大事なメッセージは、すべての夢の核心と同じく、迷路の中に見失われていた。人生における大事な出来事がおおかたそうであるように。(村上春樹『一人称単数』、75頁、文藝春秋社、2020)

かつて村上春樹は、『風の歌を聴け』の中で、架空の作家デレク・ハートフィールドを「文章を武器として戦うことができる数少ない非凡な作家のひとりであった」と書いた。それは、架空の作家を通して宣言する、村上春樹自身の作家としての気構えだったのだろうと思う。それから40年以上経った今でも、彼の「歌」は美しい共鳴を響かせたまま、象のいる平原を渡っていく。そのことを全身で受け取ることができるのは、彼の文章を羅針盤の一つとして生きてきた僕自身の物語空間が、内側に広がっているからだ。「風の歌」が吹く空間、手風琴が鳴らす「ダニー・ボーイ」が響く空間。本を何度も読むと言うこと、好きな作家が出来ると言うことは、多分そう言う空間の地図を自分の足で描くことなんだ。

=*=

20年前、僕はカミュの『シーシュポスの神話』の向こうから突然声をかけてきた女の子に、そんなことを伝えたかったはずだ。もう届くことはないにせよ、その一瞬の記憶は、僕の人生と言う一番大きな物語空間に、確かなあたたかい記憶として、特別な場所を占めている。もう一度、村上春樹の文章を引用してみよう。

そのようにして、あるときには記憶は僕にとっての最も重要な感情的資産の一つとなり、生きていくためのよすがともなった。コートの大ぶりなポケットの中に、そっと眠り込ませている温かい子猫のように。(村上春樹『一人称単数』77頁)

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